生まれたのは“普通”の日
今日、ひとつ歳を重ねました。
素直に嬉しくて、素直にありがたいです。
実はずっと、誕生日をどんな風に捉えたら良いのかわかりませんでした。その日から年齢がひとつ増える事実はすんなりと受け入れられるのだけど、
「誕生日ありがとう」なのか。
「おめでとうわたし」なのか。
「親に感謝」なのか。
どれもなんだかしっくりこなかった。だって朝起きてご飯を食べて仕事して、こんなにも普段と変わらない日常なのに。
でも今日また新しい年齢を与えられたわたしは、今なら少しわかる気がします。誕生日がどうして特別な日なのかが。
誕生日だからって期待しちゃダメ?
友達からたくさんのお祝いメールが届いたり、彼氏とディナーを食べたり、サプライズプレゼントなんてもらっちゃったりして。熱心にみていたテレビドラマの影響なのか、キラキラした雑誌の情報なのか今となっては覚えていませんが、いつの日からか“誕生日はスペシャルに過ごすものなんだ”という思い込みが芽生えていました。
誕生日をどう捉えたらいいのかはっきりとわからないままなのに、妄想ばかりが膨らんで、前夜からなんとなくそわそわ。どんな幸せな一日になるんだろうかと構えに構えていた気がします。
でも期待値が高くなればなるほど、だいたい「あれ?思ってたのと違う…」ってなりますよね。
両親はこういうときにわかりやすく張り切るタイプではなかったし、学生時代はちょうど冬休み明けということもありわたしの誕生日など忘れられがち、一緒に過ごす恋人がいなくて「ひとりぼっちだ…」と感傷的になる誕生日もあった。
わたしから見える世界はただ昨日と同じように次の日へと進んでいて、誕生日だからって会社が休みになることもなく、嫌なできごとがその日付に生まれた人をわざわざ避けてくれるわけでもない。
「誕生日は一年に一度の特別な日だよ。」「でも普通の日でもあるよ。期待しすぎないでね。」って何それ、なんか難しい!もうよくわからないや……と感じ続けていたわけです。
誕生日が特別になったとき
そんなわたしも出産という経験を通して“自分以外の人”の誕生日に関わることに。母親目線でみる子どもの「誕生日」はどうかなと考えてみると、それはもう、感慨深いものなのです。
お腹の中で十月十日の一心同体期間を過ごしたとはいえ、はじめてこの世界に生まれ出てきた子どもをみた瞬間。酸素が足りなくて苦しくなりながら生まれてきた息子の産声を聞いて、大袈裟じゃなくこの光景は奇跡だと感じました。
いやきっと、日々たくさんの命が生まれている産院ではこれが日常。地球レベルではこの日も、この日以外も、いつだって数え切れないほど多くの生物が生を受けている。多くの人にとってこの日は普通の、普段と変わりのない一日。
それでもやっぱり、月並みかもしれませんが、親にとってはじめて子どもと会えた日は特別だったんです。
普段どおりでいい。なぜならわたしたちは人の子だから
親になってわかったことがもう一つあります。
それは、“お腹に宿った瞬間から今にいたるまで、子どもに親孝行し続けてもらっている”ということ。よく「子どもは三歳までに一生分の親孝行をする」なんて言いますが、その言葉に大きく頷く人も多いのではないでしょうか?
生まれてきてくれたことだけで、親としてはもうサイコー中の最高です。生きてくれているだけで、十分過ぎるくらいの親孝行です。それを一年、二年、三年…と重ねていく姿をみられるのは、何ものにも変えがたい喜び。だから節目である誕生日はやっぱり特別な一日です。
自分自身は「親孝行できてないなぁ…」と後ろめたく思ってきた日々ですが、わたしはこうして生きているだけで親にとっては嬉しいことなのかもしれない。わたしが子どもにそう感じるように。
誕生日。
それは確かに特別な日。
けれど普通の日でもある。
奇跡に溢れた、感謝でいっぱいの、かけがえのない“普通”の一日。
子どもができたことで、親の気持ちを少し知った今。
わたしをこの世に迎えてくれた両親にまず「ありがとう」って言いたい。
それから自分自身にこっそりと、「お疲れさま。これからも楽しくね。」と声をかけたい。
わたしは今日も普段と変わらない一日を、ありがたく大切に過ごすよ。
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