恋愛リアリティーショーの作り方の問題とは
「アンリアル」という海外ドラマを見た。
日本版も制作された恋愛リアリティ番組「バチェラー」の舞台裏を描いたドラマだ。アメリカ版バチェラーを10年間手がけた元プロデューサーの女性が、番組制作の裏話を暴露した脚本を執筆している。
「バチェラー」は台本のないリアリティーショーだと謳う。しかしこのドラマでは、実際はスタッフたちが過度な演出やヤラセを考案し、出演者たちを陥れていく様子を描いている。
ドラマの中で、プロデューサーによる「もっと悪役を!」というセリフが何度も出てくる。誰かが感情を爆発させる瞬間は見どころになる、というどうしようもない事実を描く。
「リアリティーショーとは結局作り手がいる『ショー』なんだ」ということを突きつけられ、私はテラスハウスのことを思わずにはいられなかった。
テラスハウスにも、番組の最後には「演出」「プロデューサー」「チーフプロデューサー」の名前が出てくる。
「台本は一切ありません」と謳う番組で、彼らは何を演出していたのだろうか。
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テラスハウスの放送当初、私は大学生で熱心な視聴者だった。出演者が自分とあまり年齢が変わらないことも好きだった理由かもしれない。
始まった当初は、都会的で洗練された男女の共同生活をもっと淡々と見せる番組だったように思う。
お洒落な一軒家でシェアハウスをしながら、時々デートをしたり遊びに行ったり、夢を追ったり仕事に思い悩んだりする若者の姿を、私は毎週見ていた。
2015年からNetflixで「東京編」が放送開始された。
同時にYouTubeのNetflixチャンネルで山里亮太による感想動画も配信されるようになった。
何となく露悪的な演出が増えたと感じたのはこの頃からだったと思う。わかりやすく出演者を悪く見せ、ヘイトを煽るような演出だ。
これは私の勝手な想像だけど、Netflixという巨大企業が精密なマーケティングに基づいてその方が「儲かる」と判断したのかもしれない。より視聴数を集める過激な演出を指揮したのかもしれない。
「もっと悪役を!」の世界がテラスハウスにも持ち込まれたのではないか、と私は思わずにはいられない。
出演者が亡くなった以上、あれほど好きだったテラスハウスを見ることはもう二度とないだろう。
作り手に対する、ふつふつとした怒りがずっと消えないでいる。
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NetflixのHPにはこう書かれている。
エンターテイメントは、友情のように、基本的な人間のニーズです。 それは私たちの気持ちを変え、私たちに共通の場所を与えてくれます。
私たちは世界を楽しませたい。 私たちが成功すれば、笑い、共感、喜びが増します。
(Entertainment, like friendship, is a fundamental human need; it changes how we feel and gives us common ground.
We want to entertain the world. If we succeed, there is more laughter, more empathy, and more joy.)
エンターテイメントは出演者がいなければ成り立たない。
Netflixが世界を楽しませたいのなら、まずはその巨大な利益で出演者を守る仕組みを整えてほしいと思う。
誹謗中傷はあってはならないことだが、それを煽るような作り方をしていた責任はどう果たすのだろう。TwitterやYouTubeに投稿された不適切なコメントをなぜ放置していたのだろう。
どうか作り手として適切な倫理観と良心が発揮されることを、私は願ってやまない。
(追記)
今回の件でNetflixを批判したくなり企業HPまで検索したのは、外資系IT企業をわかりやすい悪者にして自分の心を落ち着かせたいからなのかもしれない。
エンターテイメントを作る一人一人の人間は、時に自分の心を殺しながら求められている仕事をすることもあるのだろう。
私自身これからもエンターテイメントを楽しみたい一人として、適切な倫理観と良心を常に忘れないでいたいと思う。
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