八重垣大明神 Part 7 八重垣大明神を建てたのは誰か
●もう一つの八重垣大明神
八重垣大明神は神社ですから、誰かが何らかの意図を持って建てたのは確実です。そこで、Part6までとは視点を変え、八重垣大明神を他所から持ち込まれた神であると仮定し、その出自を調べてみました。
実は過去に八重垣大明神と名乗った有名な神社があるのです。縁結びの神社として崇敬を集める島根県松江市の八重垣神社です。
八重垣神社の社伝によると、その歴史はスサノオとクシナダヒメの御子・アオハタサクサヒコを祀る佐久佐神社に始まります。平安時代に社号を八重垣大明神に改称し、1978年(明治11年)に現在の社号・八重垣神社に改称しました。もしも、島根県の八重垣神社が扇町の八重垣大明神のオリジナルであるなら、八重垣神社の分霊を扇町に勧請した人物がいるはずですね。では、誰が八重垣神社の分霊を扇町に持ち込んだのでしょうか。
島根県といえば、その隣に鳥取県があり、鳥取県といえば、幕末の扇町に陣屋を建てた鳥取藩(池田家)が思い当たりますので、鳥取藩(池田家)に八重垣大明神との関係を探ってみました。
※陣屋についてはPart3の最後にまとめた扇町と天満堀川の来歴を参照してください。
●鳥取藩主が八重垣大明神を持ち込んだか
幕末に鳥取藩主を務めた池田慶徳(よしのり)は十五代将軍・徳川慶喜の異母兄にあたり、儒教と国学を併せた水戸学を修め、幕末に尊皇攘夷を主張した人物です。当初の慶徳は故郷の水戸藩で過ごしていましたが、1850年(嘉永3年)に前鳥取藩主の池田慶栄(よしたか)が嫡子をもうけず急逝したために、慶徳が鳥取藩に渡り、池田家を継ぎました。
慶徳の継いだ鳥取藩は伯耆国(ほうきのくに)を挟んで出雲国(現在の島根県)と並びました。もしも慶栄や慶徳が出雲国の八重垣大明神を崇敬したとすれば、1861年(文久元年)に扇町の陣屋を建てるにあたり、慶徳が八重垣大明神の分霊を出雲国から扇町に勧請したと考えられそうです。
さて、藩主を務める程の人物が出雲国の分霊を勧請し、扇町に神社を建てたのであれば、現在の八重垣神社に分霊の記録が残るのではないかと思いまして、同社の社務所に電話で取材を行いました。しかし、取材に応じてくれた社家・佐草氏によると、八重垣を冠する社が日本各地に数多く点在するものの、何れにも分霊を行った記録がないとのことでした。
●怪談も出雲国から持ち込まれたか
本記事の公開にあたって手元の資料を見返しまして、新たに怪談の種らしき伝承を見付けました。
株式会社三栄『時空旅人』2021年(令和3年)Vol.63の66ページ「位牌堂の血の跡」に、島根県松江市の清光院の興味深い伝承が掲載されておりますので、次に引用させていただきます。
昔、松風という芸者が
橋を渡ったところに住む
相撲取りと恋仲になった。
ある武士が松風に横恋慕し、
彼女を見つけ追いかけた。
松風は懸命に逃げ、
清光院の石段を駆け上がる途中、
嫉妬に狂った武士に斬りつけられてしまう。
松風は位牌堂の階段で力尽きて亡くなった。
その階段は拭いても拭いても
血の跡が消えず、
今も松風の幽霊が出ると噂される。
お糸と与八と十三郎の刃傷沙汰にそっくりですね。ちなみに、八重垣神社と清光院は直線にして約5kmを隔て、清光院と池田家の根城・松江城は約1kmを隔てます。やはり池田慶徳が怪談の種を扇町に持ち込んだのかもしれませんね。私は清光院の伝承が八重垣大明神の怪談の出自として、ひじょうに有力であると考えます。
●大阪市水道局扇町庁舎の跡地の今後
2023年10月に扇町ミュージアムキューブが竣工します。250席、100席、50席の劇場の他に、映画・音楽・舞踊・伝統芸能・美術・体験型講座などの多様なアートジャンルの集まる10個のキューブからなるシアターコンプレックスだそうです。
(公式アカウント:https://twitter.com/om_cube)
幽霊騒動も今は昔。住民の一人として、扇町ミュージアムキューブが喜びと笑いのあふれる空間になってほしいと願います。
本記事は以上となります。読んでいただきありがとうございました。