虫の知らせの思い出
中学3年生から高校1年生にかけて体験した少し不思議な出来事をしたためてみました。世の中に心霊現象が本当にあるか分かりませんし、私の勝手な思い込みかもしれませんが、記憶から消える前に感じたままを書き残しておきます。
* * *
1998年1月。中学校の卒業を控えた最後の冬休みでした。
町外れの集合住宅の自宅でだらだらと過ごしていると、祖母から電話が掛かってきました。電話の内容は、近日に祖父と祖母が北海道へ旅行に出掛けるから、その間に届く宅配便を受け取っておいてほしいという旨でした。当時は荷物の届く日時の指定が出来ず、届くであろう日時に自宅で待つ必要があったのですね。祖父母宅といっても私の自宅から自転車で約5分の距離でしたから、二つ返事で了承しました。
それから数日後、祖父母の旅行に発った日に祖父母宅へと向かいました。
ここで、後に何度か登場する祖父母宅の様子を詳しく説明しておきます。
1950年代に建てられた妻切り屋根の木造二階建ての長屋で、1階に4軒が、2階に4軒が並びました。祖父母宅は右から2番目の区画の1階で、面する道路から建物までに約6m程のコンクリートの庭があり、ここに洗濯物を干したり自転車を置いたりしました。庭を突き当たって、間口の左に2階宅の玄関の開き戸があり、右に祖父母宅の玄関の引き戸がありました。ガラガラと音を立てながら開く左右2枚のアルミサッシで、日中にほとんど施錠しなかったですね。
引き戸の向こうに玄関の三和土(たたき)があり、そこから上がり框(あがりがまち)を越えて中に入るのですが、昔の建物ですから框が約50cmと高いのです。右足の不自由な祖母のために、木製の台を置いてありました。
三和土を越えると部屋が左右に分かれます。左は約3畳の部屋で、ニスで仕上げた飴色のベニヤ板の壁に町内の地図を貼り、壁際の台に電話を置きました。右は約3畳の板張りの炊事場で、框の段差を利用して床下にビールケースを仕舞えるようになっていました。祖父はキリンビールのファンでしたね。流し台の隣にガス式の炊飯器と緑色の冷蔵庫を置き、天井の近くの神棚に清荒神(兵庫県宝塚市)の神札(しんさつ)を祀りました。
それら左右の部屋を過ぎると6畳の和室で、水屋、鏡台、テレビ、卓袱台を置いたこの部屋を、祖父母が居間として使っていました。
6畳の和室を過ぎると8畳の仏間でした。左の壁際の板間に仏壇を置き、その上の長押(なげし)に曽祖母の遺影と、戦死した大伯父(祖父の兄・隼の操縦士でした。享年22)に贈られた額縁の勲記を飾りました。内閣総理大臣佐藤栄作の名があったと記憶します。右の壁際に並んだ大きな箪笥から、樟脳(しょうのう)の独特な匂いが漂いました。先述の通り長屋の中央の区画ですから、左右の壁に窓がなく、日中でも照明を点けないと真っ暗なのです。樟脳の匂う真っ暗な空間に鎮まる仏壇と遺影が、中学三年生にもなった私にとって不気味でした。先祖には無礼ですが。
仏間の奥のふすまを開けると縁側で、左の端にトイレがあり、右の端に2台目の冷蔵庫がありました。また、縁側の向こうに庭があったのだと思われますが、部屋を増やしたかったのでしょう。約4畳の小屋を増築してあり、物置として使っていました。
長くなりましたね。祖父母宅の説明は以上です。
祖父母の旅行に発った日に話を戻します。昼過ぎに荷物を受け取りました。荷物は確か祖母の故郷・鹿児島県指宿市から届いた大きな段ボールで、中にカボチャやらニンジンやらたくさんの野菜が入っていたと思います。
その夜に不思議な夢を見ました。
夢の中の私は祖父母宅にいます。玄関を入ってすぐの約3畳の部屋で、ベニヤ板の壁に向かって静かに正座し、壁の一点をじっと見詰めます。そこに、祖父のバストアップの写真があります。
「あ、じいちゃん」
そう思った瞬間に目が覚めました。現実の私は自宅の布団の中でした。同時に、私は何故か遠く北海道にいる祖父母が心配になりました。もしかしたら、これが虫の知らせというやつか。しかし、それは無用の心配に終わりました。数日後に祖母から元気な声で電話が掛かってきたのです。
「荷物を受け取ってくれて
ありがとうね。
お土産を取りにおいで」
* * *
1998年4月。私は高校1年生となり、初めて携帯電話を手にしました。J-Phoneの小さくて銀色の機種だったと思います。
5月半ばの夕方に祖母から着信がありました。電話に出ると、電話の向こうの祖母は気が動転しているようでした。どうした、何があったと尋ねると、祖母が震える涙声で答えました。
「お父ちゃんの様子が
おかしいねん。
はよ来てくれへんか」
私は母に電話の件を伝え、母とともに自転車で祖父母宅へと急ぎました。
庭に自転車を停め、引き戸をガラガラと空け、ベニヤ板の部屋を抜けると、居間の中央にへたり込んだ祖父と、隣に立ちすくんだ祖母がいました。祖父は両目が充血し、何度も立ち上がろうとするも立ち上がれず、回らぬ呂律の細く弱い声で言いました。
「俺はまだ死なへんぞ。
俺は大丈夫や。
病院になんか行かへんぞ。
まだまだお母ちゃんと
ここにおるからな」
当時の私は高校1年生でしたし、今の私にだって医療の知識がありません。そんな私の見るからに、祖父の様子は危険でした。乱暴な表現で恐縮ですが、やばいと思いました。
母がベニヤ板の部屋で119番に通報してから、約10分だったでしょうか。救急車が到着し、救急隊員とともに祖父を説得しました。
「じいちゃんな、
大丈夫なんやったら、
病院へ行ったらええねん。
先生に診てもろたら
大丈夫やて得心するやろ?
いっぺんでええから
病院へ行こうな」
祖父と祖母が救急車に乗り込み、母が自転車で救急車を追いました。私が祖父母宅で留守番してると、約40分の過ぎた頃に、病院の母から着信がありました。電話の内容は、医者に処置をしてもらったので、今日は何とも大丈夫そうだという旨でした。
私はアホだったのですね。母の大丈夫という言葉を拡大して解釈し、大して祖父を心配せず、たった2度しか見舞いに行きませんでした。もっと話しておけばよかった。
* * *
1998年6月25日18時頃。祖母から着信があり、母とともに自転車で病院へと急ぎました。ベッドの上の祖父は既に心肺停止の状態で、医師の懸命な電気ショックを受けるも意識を取り戻さず、18時50分頃に旅立ちました。享年69。1928年の香川県に生まれ、終戦直後の大阪に移住し、サラリーマンのタクシーの運転手を経て、個人タクシーの運転手として家計を支えた、楠男(くすお)の名の通り立派な大黒柱でした。
祖父の亡き骸と祖母は寝台車に乗せられ、私と母は自転車で祖父母宅へと向かいました。祖父の臨終が夕方でしたので、菩提寺の僧侶を招き、仮通夜を行いました。仏間の中央に横たわった祖父の身体は紫色の布団を掛けれられ、顔は白い布を掛けられていました。
その後に祖父を囲んで親類や隣人らが思い出話をしているところに、母が縁側の向こうの小屋から何かを抱えてきました。何冊かのアルバムです。アルバムを開きながら母が言いました。
「時間が遅いから、
はよ遺影に使う写真を皆で選ぼか。
せやな、
おとうちゃんとおかあちゃんの
写ったツーショットの中で、
おとうちゃんが
いっちゃん(一番)男前に
見える写真にしよか」
遺影に使う写真を選ぶといっても、いざ写真を見れば思い出話をしてしまいますね。わいわいと楽しくなってしまいました。いつも暗く感じる仏間が、それも、祖父の死んだ直後なのに、この時は何故か明るく感じたように記憶します。
母親が一枚の写真を掴んで言いました。
「これにするわ。
商店街の写真屋さんに
持って行くで。」
* * *
1998年6月26日。祖母と私は午前に祖父の湯灌(ゆかん)に立ち会いました。祖父の姿を目に焼き付けておこうと思ったのです。次いで隣町の葬祭場へと向かいました。葬儀社のスタッフが設営を進める傍らで、私は2列にずらりと並んだ3人掛けのパイプ椅子の最前列に腰掛けました。
「ああ、
じいちゃんがほんまに
死んでもうたんやな」
そう思いながら、ふと前方の祭壇に目をやると、途端に恐怖と驚きで身体が硬直してしまいました。祭壇の中央に飾られた祖父の遺影が、半年前の夢でベニヤ板の壁に見た写真と同じだったのです。
「やはりあの夢は
虫の知らせだったのか。
じいちゃんごめんな、
あの時点で病院へ
連れて行けばよかったな」
私は恐怖と後悔の入り混じった感情で午後の通夜を過ごしました。
* * *
夕方に通夜振舞いがあり、多くの方が参加してくれました。大半が祖父の元同僚で、三菱タクシー(現未来都タクシー)の運転手だった方ばかりでした。
私の右隣に母が座り、母の右隣に祖母が座っていました。皆が笑顔で祖父との思い出話をする中で、祖母は一人で小さな背中を震わせながら泣いていました。
「なんで、
おとうちゃんの不調に
気付いてあげられへん
かったんやろか」
私と母は祖母を慰めました。
「ずっと一緒におれたから、
変化に気付かんかったんと
ちゃうかな。
自分を責めんでええで。
じいちゃんが悲しむで」
そんな祖母を気遣ってか、一人の男性が母と祖母の間に割って入り、祖母に声を掛けました。
「奥さん、大変やなぁ。
アイツ(祖父)はこんなにも
はよに死んでもうてからに。
何かあったら言うてや」
どうやら、この男性も祖父の元同僚のようでした。私は男性と祖母の会話にうんうんと相槌を打っていましたが、男性の発したある言葉に戦慄が走りました。
「奥さんな、
半年前に一緒に行った
北海道での懇親会を
覚えてるか?
こんな時に、こんなこと言うて、
ほんまにすまんのやけど、
初日の夜に大広間で
食事を取ったやろ。
あん時にな、アイツ(祖父)が
俺の真ん前のお膳で
飯を食うてたんやけどな、
俺な、飯を食う
アイツの顔を見てな、
そろそろ、
死ぬんちゃうかと思たんや。
ごめんなぁ、
こんなこと言うて」
男性が私の祖父の顔を見て、祖父の不調を感じ取ったまさにその夜に、私は夢で祖父の遺影を見たのですね。やはり、虫の知らせだったのでしょう。
* * *
祖父の葬儀、初七日、四十九日、墓の開眼供養などを終えた頃だったと思います。ずっと気になっていたことを母に尋ねてみました。
「じいちゃんの遺影に
選んだ写真てさ、
あれって、
何の写真やったん?」
母が答えました。
「う〜ん、何やったかな。
確か直近の旅行の写真と
違うかったかなぁ」
母の記憶が確かなら、直近の旅行とは北海道での懇親会を指します。
その後に祖母が亡くなり、母も亡くなり、商店街の写真屋が廃業されてしまいましたので、遺影に使った写真がどこで撮られたものか、真相を知る手立てがありません。また、知ろうとも思いません。
おわり