八重垣大明神 Part 3 怪談の生まれた背景は何か
●怪談の生まれた背景を推測
人形浄瑠璃の演目が八重垣大明神の怪談に変転したのであるなら、作品を怪談として語るに至った背景があるはずです。当時の世相と扇町(公園)の歴史に触れつつ、背景を簡単に推測してみます。
●当時の世相
門左衛門の活躍した頃は男女の心中を描く作品が流行しまして、感化を受けた若者による心中が後を絶たなかったといいます。1723年(享保8年)に徳川幕府が心中を題材とした作品を禁じ、心中の生存者には極刑を処した程なのですね。また、門左衛門の作品に天満堀川の周辺を舞台に描くものがいくつかありましたので、そういった世相が八重垣大明神の怪談の背景にあるのかもしれません。
●扇町公園の歴史
では、天満堀川の周辺において、どうして八重垣大明神が怪談の舞台になったのでしょうか。私は扇町(公園)の歴史がそうさせたのだろうと考えます。その根拠として、扇町(公園)と天満堀川の来歴から八重垣大明神に関わりそうな要点を次に抜粋しましたのでご覧になってください。各項目の下の( )内は、各項目がどこに位置するかを示します。
1)江戸時代・・・・・処刑場
(扇町公園の大半)
2)幕末・・・・・・・備前岡山藩の陣屋
(扇町公園の大半)
桜並木
(天満堀川沿い)
3)明治〜大正時代・・監獄署および陸軍兵営
(扇町公園の大半)
4)大正時代以降・・・扇町公園
5)1934年・・・・大阪市水道局扇町庁舎の竣工
(八重垣大明神の向かい)
6)1956年・・・・日本道路公団の発足
(東京都)
7)1959年・・・・阪神地区高速道路協議会の
発足
(大阪府)
8)1961年・・・・阪神高速道路公団の発足
(大阪府)
9)1966年・・・・阪神高速道路12号守口線の
建設に先立つ
八重垣大明神の数十mの遷座
(八重垣大明神の現社地)
10)1966〜8年・・天満堀川の埋め立て 及び
天満堀川の埋立地に
阪神高速道路の建設
(天満堀川)
11)2001年・・・・大阪市水道局の転出 及び
SOHO・メビック扇町として
庁舎の転用
(八重垣大明神の向かい)
12)2010年・・・・メビック扇町の解体
(八重垣大明神の向かい)
上記を含む扇町(公園)と天満堀川の来歴をこのページの最後にまとめました。時間に余裕のある方や、土地の歴史に興味のある方は読んでください。本記事の解像度がより上がります。
まず目を引くのは(1)処刑場でしょう。心中を題材とした作品の舞台に処刑場があったのですね。いかにも怪談の生まれそうな空気を感じませんでしょうか。尤も当時の扇町は大坂城下の北端に近く、つまり町の外れでしたから、処刑場を設置する場所に適したのですね。大坂城下の南端に千日刑場がありましたし、当時としては当たり前の光景だったのです。
次いで目を引くのは(3)監獄署・陸軍兵営でしょう。幕末の桜並木から一変し、物々しい雰囲気だったと思われます。今の景色からは想像が付きませんね。
ここで(5)大阪市水道局扇町庁舎と(6)日本道路公団と(7)阪神地区高速道路協議会と(8)阪神高速道路公団と(9)八重垣大明神の遷座にご留意を願います。
これらが、Part4で私の出会う信じがたい事実の「鍵」となります。
「Part 4 見付からない鍵の向こうに幽霊が出る」に続きます。
https://note.com/yoyoyonozoo/n/nd9fc8783d1da
●扇町(公園)と天満堀川の来歴
扇町(公園)と天満堀川の来歴をひとつなぎにまとめた資料が少ないようですので、少し詳しく書いてみました。
1598年(慶長3年)
最晩年の豊臣秀吉が天満堀川を開削した。堂島川との分岐から約1kmにわたる堀留で、扇町で行き止まりとなっていた。
1600年(慶長5年)
関ヶ原の戦いが勃発した。
1603年(慶長8年)
徳川家康が征夷大将軍に就任し、以て江戸時代が始まった。
1605年(慶長10年)
徳川秀忠が二代将軍に就任した。この頃の扇町(公園の大半)に処刑所が成立した。
1615年(慶長20年)
大坂夏の陣が勃発し、豊臣家が滅亡した。以降に太平の世となり、大坂の人口が増加するにつれ、水流のない天満堀川と河岸にゴミが溜まり始めた。
1838年(天保9年)
徳川幕府が天満堀川を延伸し、旧淀川(現大川)と繋げ、ゴミと悪臭を洗い流した。堀端の河岸が桜並木に生まれ変わり、観桜の客で賑わった。
1853年(嘉永6年)
横浜港にマシュー・ペリーが来航した。これを受け、徳川幕府が諸藩に対し湾岸の台場の築造と藩士の駐屯を命じた。幕府の命を受け、備前岡山藩(池田家)と鳥取藩(池田家)と土浦藩(土屋家)が矢倉・嶋屋・布屋(現在の西淀川区の海岸)の台場を受け持った。しかし、台場の周辺には屯所を展開する余地がなく、藩士らは約8kmも離れた中之島や天満の蔵屋敷から台場へと通わなければならなかった。当時の中之島や天満は市場として賑わう地域であったので、藩士らはせわしなく働く商人や食品に囲まれ、とても窮屈な思いを強いられた。
1861年(文久元年)
藩士らの境遇を憂慮したか、徳川幕府が西成郡川崎村に有する1万54坪の土地を備前岡山藩に与え、備前岡山藩が陣屋を建てた。この1万54坪の土地が、かつて処刑場であり、後に扇町公園となる土地である。
1863年(文久3年)
徳川幕府が備前岡山藩の受け持台場を瀬戸内海に改めた。しかし、備前岡山藩が陣屋の引き続く使用を嘆願し、陣屋がそのままに残った。備前岡山藩の提出した嘆願書が岡山大学附属図書館に現存する。
1867年(慶応3年)
十五代将軍・徳川慶喜が政権を返上した。大政奉還である。
1882年(明治15年)
明治政府が備前岡山藩の陣屋と土地を接収し、扇町(公園の大半)に堀川監獄署を建てた。次いで松屋町牢屋(幕府所有)、若松町已決監獄署(政府所有)、中の島懲役場(政府所有)が堀川監獄署に編入した。
1887年(明治20年)
市内の監獄署の集約を機に、堀川監獄署が大阪監獄署へと改称した。同署は陸軍の兵営を兼ねたために、幕末の桜並木から一変し、物々しい雰囲気が漂った。
1895年(明治28年)
大阪鉄道の梅田駅から玉造駅までが開通した。後の大阪環状線である。
1897年(明治30年)
この年に始まった新淀川の治水により扇町の北方で水害が減少した。
1914年(大正3年)
この年に勃発した第一次世界大戦の戦勝による好況の波を受け、扇町の北方に数多くの人家が建ち並ぶようになった。
1920年(大正9年)
住民からの「市街地に監獄署は相応しくない」との声を受け、大阪監獄署が堺市へと転出した。
1923年(大正12年)
大阪監獄署の跡地が扇町公園として生まれ変わった。その一方で、急増した人家から天満堀川に排水が流れ込み、再びゴミと悪臭が問題となった。
1934年(昭和9年)
八重垣大明神の向かい(北区南扇町6番地28号)に大阪市水道局扇町庁舎が竣工した。
1950年(昭和25年)
8月に開催の日米国際選手権水泳大会に先立ち市営大阪プールが誕生した。
1956年(昭和31年)4月
東京都千代田区霞が関で日本道路公団が誕生した。
1959年(昭和34年)9月
阪神地区高速道路協議会が発足した。
1961年(昭和36年)12月
阪神高速道路公団が誕生した。
1966年(昭和41年)〜1968年(昭和43年)
天満堀川が埋め立てられ、埋め立てと同時に天満堀川の跡地をなぞる阪神高速道路12号守口線が開通した。堂島川から扇町公園までの高架下は車道となり、扇町公園から大川までの高架下は駐車場となった。
1997年(平成9年)
施設の老朽を理由に市営大阪プールが姿を消し、同時に園内の北東に関西テレビ放送の社屋が建った。また、9月に開催のなみはや国体に先立ち、港区に二代目の大阪プールが誕生した。
2001年(平成13年)
大阪市水道局がアジア太平洋トレードセンターITM棟9階(住之江区南港北2丁目1番地10号)へと移転した。また、残る扇町庁舎が新興企業や若手クリエイターのSOHOとして扇町インキュベーションプラザ/メビック扇町として刷新した。
2010年(平成22年)3月
扇町インキュベーションプラザ/メビック扇町が閉館し、建物が解体された。
2013年(平成25年)8月
大阪府警が扇町庁舎の跡地に天満警察署の仮庁舎を建設した。
2017年(平成29年)8月
天満警察署の新庁舎(北区西天満1丁目12番地12号)の竣工に伴い仮庁舎が解体された。
2018年(平成30年)年8月24日
大阪市が仮庁舎の跡地を80億円で払い下げ、同地においてヒューリック株式会社と医療法人医誠会と一般財団法人仁厚医学研究所の三者が共同で事業を行うと決定した。北側には地下1階から地上8階の施設が、南側には地下1階から地上13階の施設が建ち、内部には560床を備える病院や100〜200席と50〜100席を備える二つの劇場に加え、カフェやコンビニの設置を計画する。
市営大阪プールが懐かしいですね。私・吉野は小学生の頃に一度だけ泳ぎに行きました。国際規格に準じた設計だったので、水槽の中央がもの凄く深かったです。確か2.5mか3mの水深だったでしょうか。