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木下さんに名刺を作ってもらい、岸田さんにDM読み上げをしてもらった話


2020年の3月に事件が起き、2022年3月に刑事裁判が終わった。
それから3ヵ月かそこら、燃え尽きた様になった。
頂いた仕事を少しやる以外は何をしていたか、正確には覚えていない。
昼間は現実から逃れるために可能な限り眠った。
そして、夜な夜な小説類を読み、考え事をした。
kindle unlimitedでこれまでなら手に取る様な事が無かった著者も、読み放題ならばと読んでみた。
池井戸潤などを、初めて読んだ。
なるほど、こりゃ売れるだろうなと思った。
基本的には昼夜逆転である。
今もその気配は残っている。

7月くらいから人と会う機会が増えた。
仕事以外で人と会う事も徐々に増えて行った様に思う。
9月に大分へ署名活動に参加しに行った。
メディアも含め、様々な人と名刺交換をした。


11月に熊本で開かれたシンポジウムにも現地で参加した。

https://www.npa.go.jp/koutsuu/kikaku/jikosupport/symposium/R4symposiumtirasi_yoko_omote02.pdf

主な目的は警察庁の関係者と川本哲郎先生に直接会う為だった。
色々あったが結果的には現地に飛んで正解だったと思う。

そして11月に初めて犯罪被害者団体ネットワーク「ハートバンド」の全国大会に出席した。

事件から2年半超の時が流れ、初めてこうした集会に参加した。
こうした問題に長年取り組み続けてきた当事者の方達に初めてお会いした。
やっと会う事が出来たと言う気持ちだった。
その会場で偶然にもお声がけ頂いたのが曽我部とし子さん。

曾我部さんもちゃんと名刺をお持ちで、何かのご縁だと思いますとお声がけ下さり名刺交換をして頂いた。
曾我部さんが多くの人と名刺を交換し、自らの思いを訴え続けてきた事が、その所作からすぐに分かった。

その頃ぐらいからだろうか、やっつけで作った味気ない自分の名刺を少し変えようかと思い始めた。

ハートバンドの全国大会の会場にはギターを持った青年がいた。
根が偏屈に出来ている私は、24時間テレビ的なLiveをやるのかと、少し斜に構えて青年の歌を聴いた。
なるほどプロなのだ、綺麗な声だと思った。
私の悪い癖らしいが、すぐに周囲を観察する癖がある。
私は、周囲の人がどの様な様子で青年の歌を聴くのかを見た。
皆、心から聴いていた。単なるお決まりのセレモニーではない事が分かった。
その観察に忙しく、肝心の彼の歌の歌詞は殆ど覚えていなかった。

ハートバンドの歴史は長い。
私は初参加の新参者である。
しかし、生歌を終えた青年に話しかけ、名刺交換をした。
角が丸い、黄色い洒落た名刺をもらった。
青年がTwitterをやっている事を知ると、すぐにフォローした。
それがフォークシンガー木下徹さんとの出会いである。

木下さんはハートバンドに何度も参加している先輩であった。
遺族ではないと言う。
若いのに変わっているなと思った。

その日は福岡大学の小佐井良太教授に直接お会いすると言う目的もあった。
小佐井先生も長年ハートバンドに関わって来た方だと知った。
私は新参者である事を良い事に、大会後の食事会で小佐井先生の正面に陣取り生ビールを2杯ほど飲んで勢いをつけてから、自分の考えを話しまくった。

その日は、そんな感じで終わった。

年が明けて2023年。

私はいよいよ名刺を作り変えようと決めた。
娘の名前は耀子と言う。
「耀」と言う字は、我々夫婦が命名を迷っている時に私の母が見つけた漢字である。
義母の名前に光という文字が入っている事もあり、この字の雰囲気と「光」へんが気に入り、耀子と名付けた。
「耀」と言う字は、耀子本人も大変に気に入っていた。
小学校低学年まではひどかった字も、4年生くらいから徐々に上達していた。
自分の名前も丁寧に、その文字が持つ雰囲気そのままに書けるように成長していた。

私はこの「耀」と言う字をモチーフにして名刺に入れるロゴを作りたいと考えた。
自分で幾つか案を書き出してみたが、どれもダメだった。
どの様にプロに頼めば良いのかも分からなかった。

そんな事をぼんやりと考えていた時、なぜだか、木下徹さんはハートバンドでどんな歌を歌っていたのか?歌詞が気になった。
木下さんのHPをざっと見たが、大会当日に歌って下さった歌は見当たらなかった。
HPを色々と見ていると、木下さんがデザインの仕事もしている事を知った。
しかも、名刺も作ると言う。
「これは」と思った。
早速、ご本人にメールで連絡をとり、「耀」という文字をモチーフにしたロゴ入りの名刺を作りたいと、お願いをした。
木下さんは私の事を覚えていてくれた。
そして私の思いを理解して下さり、ロゴ入りの名刺の作成を快諾してくれた。
その際のやり取りで、大会当日に歌って下さった歌はどこかで聴けますか?と訊ねた。
すると、YouTubeのリンクを送ってくれた。
作詞は木下さんのお父様で、曲は木下さんが書いたと言う。

これは、私達の様な経験をした当事者にとっては、大変辛い、そして大変に我々の気持ちを分かっている曲であった。
私は自室で、一人、泣きながら聴いた。

ロゴのデザイン案は複数パターンが予想よりも早くあっという間に送られてきた。
「さすがプロだね」妻と話した。

「耀」と言う文字と頭文字の「Y」、これがストンと耀子らしいロゴになっていた。いくつかの修正を経て、耀子が最後に履いていたバスケットシューズの絵もワンポントで入れてもらって、名刺は完成した。

納得の出来だった。

メールのラリーの中でハートバンドに参加したきっかけを尋ねた。

「ハートバンド参加のきっかけは生命のメッセージ展です。
初めてメッセージ展を訪れたのは中学の時、高校の時に会場で歌わせていただく機会をいただいたことがきっかけで犯罪被害者週間全国大会へ呼んでいただくことになりました。」 

と言う事はもう20年と言う事だろう。
私はそうした人に、耀子への思いが詰まった名刺を作ってもらえた事が嬉しかった。
改めて言うが、納得の出来だったのである。

今年は一緒に飯を食おうと約束した。
ここまでが、木下さんに名刺を作ってもらった話。

おまけ的にはなるが、ここからは岸田さんにDM読み上げをしてもらった話である。

昨夜の事だ。
私は身内からのある種の裏切りに遭い心が疲れていた。
逆縁に陥ると、身内からの遠慮のない、そして配慮の無い無理解の言葉にひどく傷つけられる事がある。
どこまでつまびらかにこちらの心情を説明しても、分からないものは分からないらしい。それは仕方がない。
しかし、私と妻は、今なお闘っているのである。
可能な限り正攻法で。
「真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である」
ナポレオンの言葉だそうだが、昨夜はこの様な心持ちであった。
闘うのはてめえの勝手だろ?と、お叱りを受けるかもしれないが、この際その様な議論に付き合うつもりはない。

Twitterのタイムラインで岸田奈美さんの事を見かけたのは今年に入ってからではなかったかと記憶している。

上述の通り根が偏屈に出来ている私は岸田さんの事も、斜に構えて眺めていた。
しかし、実際に彼女の文章を読んでみると、こう言う表現者がいるのかと感心させられた。

こうした人が売れている日本は、やはりまだ可能性があるのではないかと思った。
そもそも、可能性を信じていなければ、私とて闘いはしないし、先人達も闘って来なかっただろう。

私がnoteを始めようと思ったのは岸田さんの影響である。

そんな岸田さんがTwitterのスペースで、岸田さん宛てに届いたDMを、その場で届いた順に読み上げるという企画を行っている事を知った。

一度、仕組みがよくわからずに読み上げられるのに失敗した事があった。
昨晩は心が疲れている事もあって、まあ別にいいかとスキップも考えたが、良いと思った人にアクセスできるのがSNSの凄いところなので、折角なので今回限りでと思い、DMを送った。
読み上げられた。
岸田さんはその場で一つ一つのDMにパンパンとコメントをくれる。
私のDMの内容は重かったはずだ。

「岸田さんこんばんは。 DM読み上げリベンジです。 今、「もうあかんわ日記」読み進めています。 書く事、綴る事は、これは書かねば、綴らねば、と言う思いの結晶だと思います。 そして、そこにユーモアはとても大切だと思います。 昨年読んだ本で一番印象的だったのは山本文緒氏の余命4ヵ月の日記です。 今、私の中に常に「死」があります。自死ではありません。 私は約3年前に犯罪で11歳の娘を失っています。 その時から、何もかもが変わりました。何もかもが。 その様な中、昨年から私は書く事を始めました。 岸田さんがきっかけで今月からnoteも始めました。 書く事、綴る事はとても大事な事だと思います。 これからも岸田さんの書く事を応援しています。」

岸田さんがどの様なコメントをくれたかはスペースの録音を聞けばわかる。

SNSとは「社会的なネットワークを築くためのサービス」と言う事らしい。
現実的にはネットワークはすぐには出来ない。
晒す事のリスクもある。
オンラインではなくオフラインでアクセスせねば絶対に動かない事も多い。

しかし、私は自らの体験を発信せずにはいられない、そして、「これは良いな」と言う誰かの呟きを受信したいと思わずにはいられない。

そんな事を思った次第であります。




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