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東京オリンピック2020が提示したもの

基本無観客での開催となった東京オリンピック。
感染症のパンデミックで1年延期され、緊急事態宣言が発令された状態での開催された異様な大会を、後世の人々はどう評価するだろうか。
 
自分は今までで一番、競技を視聴した大会となった。
こんな状態でのオリンピックはそうそうないだろうから、積極的に観てみようと思えたのもあるが、スポーツ観戦自体は好きな方だと思う。
忙しくなるにつれ、試合を観ることはなくなったが、スポーツニュースは(ネットで)チェックしていた。
 
今回のオリンピックには賛否両論あるが、そもそもオリンピックについての是非は、肥大化した商業化路線が露骨になった時点から問題にはなっていた。
本大会をどう評価するか、これはかなり多岐に渡る議論を要するはずだが、昨今のトレンドらしく二極化が激化しているように感じる。
 
この記事は本大会の開催によってどんな問題が可視化されたのか、そしてオリンピックは今後どう消費されていくのかを考察し、自分なりのオリンピック像を描き出したいと思う。


◆緊急事態宣言下でのオリンピック開催について

私はこの状況下でのオリンピック開催は妥当ではないという立場だった。
しかし、それは有観客を前提としていた。
逆に無観客にするとなると、オリンピックの開催意義的に別の問題が浮上してくると思った。
 
最終的に無観客での開催となった。
この時点でコロナの感染拡大との因果関係はクローズアップされることは”原則”無いと思った。
もちろん五輪が関係して感染する人はゼロではないが、それは日常の生活や大小イベントによって感染するレベルと大差がないと思うからだ。
当初は反対していたのに、始まったらオリンピックを観戦して楽しむのか!というのは、まず観客の有無によって違うことと、開催後も五輪中止を訴えているかで違ってくる。
是が非でも反対!という人は表向きは観戦していないとしなければならないだろう。
ただ五輪関係者が世界各国から入国するということは、感染症の観点からはNGだと思われる。
検査等の対策はとっているがタイムラグのあるこの感染症は、防ぎきれる保証がない。
少数とはいえ世界各国からの人々を一堂に集めるという行為は危険を孕んでいるのは否めない。
 
しかし、グローバル社会において遅かれ早やかれ新たな変異株がやってくることは、中国のような強力な人権制限を加えた対策を取らない限り防げないだろう。
だから無観客による東京オリンピックの感染への影響は限定的であると私は思う。
現在の感染爆発は五輪とは関係なく、起こるべくして起こっていると思う。
日本はパンデミックから今日まで医療法制に手を付けることが出来ず、ワクチン接種も滞ってしまっている。
検査抑制に自粛要請、そして特定業種をスケープゴートにすることしか出来ていないので、感染爆発は失政であると言える。
日本は現状のシステムを壊さずにコロナが去っていくことを祈念するだけで、リアルタイムに変化する事象に対応できていない。
システムとは既存の利権システムといってもいいだろう。それには中々手を付けられない。
何故だろうか。
幕末には圧倒的な欧米の技術と戦力の差を自覚し、命がけで開国を推進した志士たちがいたが、現日本では江戸300年のメンタリティとシステムが復活してしまっている。
排外主義は人以外に思想もある。
日本は形式的に近代化したに過ぎず、島国一民族ゆえのお代官様メンタリティから未だ抜け出せていない。
  
 
次に、無観客で感染が限定的であるとするならば開催しても良いのか、という問いへの回答は専門家によって別れる。
感染症専門からは当然NGだし、医療従事者にとっても基本はNGだろう。
難しいのは哲学思想的になると必ずしもNGとはならない。
色々な視点や考え方があるからだ。

例えばこの感染症だけをクローズアップすることは妥当なのかという問いがある。
死者数という視点で考えると、世の中では毎日たくさんの人が亡くなっており、その原因も様々だ。
コロナによる死はどこまで特別なのか、という問いになり、簡単に回答は出なくなるはずだ。
個人的にはワクチンと治療薬が出来ることで、コロナの死は一般的な死と同列に扱われるようになると思う。
この2つがあるのだから、それでも感染して死んでしまうのであれば仕方がない、と一定の了解を得ることができる。
現状ワクチンは持続性も判然とせず応急処置的に認められているに過ぎないし、数も世界的には足りていない。そして治療薬はまだ完成しないため、コロナに感染して死ぬということは”特別な死”であり、政治的判断が重要となっている。

◆無観客開催の問題点

根本的な問題は、何のためのオリンピックなのか、だろう。
オリンピックは途上国にとっては様々な観点から益をもたらすと言われている。
かつての東京1964も、戦後復興の過程で国民が自信を回復するために機能したと言われている。
先進国に追いつけ追い越せをスローガンに、国力を上げて世界的ビッグイベントを成功させることは国の発展にとってプラスになることが多い。
もちろんそれは資本主義の発展が多くの人間が幸せを感じるシステムだと信じられている、という前提がある。
だから現在においては、このイベントが国民に幸をもたらすかは議論の余地がある。
 
先進国でのオリンピック開催は費用がかさむ割にプラスになる要素が少なく、あまり歓迎されていないという論も目にする。
それは国民の共通認識として、幸をもたらすイベントではなくなりつつあるということだろう。
それは必然的に、誰にとって”得”なのか、という部分にスポットが当たることになる。
 
オリンピック精神がほぼ建前となってしまったのは、1984年のロス五輪が大きいと言われている。
開催地の経済的負担を減らすためにスポンサーから資金を調達することになったのが原因と言われている。
IOCとはスイスのNPO兼NGOに過ぎなかったが、スポンサーシップ導入によってオリンピックは巨大な利益を生むイベントと変容してしまった。
それでも、それらの富が”分配”されていればまだよかったが、金融資本主義の到来によって経済成長の質が変化した。
じわじわと貧富の差は広がり、中間層を破壊していき、富はごく一部の人間に集中することになる。

オリンピック精神はこのロス五輪を機に消失したと考えてよいと思う。
スポーツは娯楽を提供する装置となり、それに特化したルールに変えられてしまう競技もあった。
スポーツ市場の肥大化でもあったと思う。

そういった流れでみると、先進国でオリンピックを開催するために国民から同意を得るには、経済効果が切り離せないことになる。
既にインフラも技術もある国にとってオリンピックを開催する意味は娯楽の提供以外にない。
商売なので儲ける必要が出てくる。
新設会場の今後の運営なども問題になっているが、広く見て儲けられるかが重要になる。
 
無観客は、儲けという点では全く機能しない。
観戦チケット代だけでなく、インバウンド需要に期待していた業界にとっても開催する意味は失われてしまう。
潤うのは放映権を手にするIOCであり、彼らは開催さえすれば国の状態や中身などどうでもよかった。

ここでオリンピック精神を復活させるのはナンセンスだろう。
そもそもお金に左右されずに、スポーツの精神云々として開催されることに意義がある、とするのは文脈を無視しているし詭弁だ。
 
次に、今回の東京五輪に関してだが、政治的利用が挙げられる。
1964東京五輪を懐かしむ世代はワクチンもほぼ打っているし安心して観戦するし、その多くが選挙に行く人たちだ。
日本人の活躍を見せることで、国威高揚し、現状維持政策でも支持を得られると考える現政権と、女性初の総理に拘る小池都知事が都民無視で打算を計り、政権と一蓮托生となる選択をし、開催に踏み切った。(それが功を奏するかはまだ分からない)
観客は入れたかったと思うが、さすがにそれは出来なかった。
それは唯一の救いだ。

◆自分自身はオリンピックをどう見たか

私はどちらにしても今回のオリンピックを見届けようと思っていた。
むしろ、積極的に見ようと思った。
果たして、それらの感動は政権を支持するくらいに高揚させるものなのかどうか、を確かめたかった。
 
スポーツが嫌いな人はもちろんいるし、興味のない人もいる。
しかし身体を動かすこと、運動というのは人間にとって生きる上で必須の行為であるし、娯楽を楽しむ行為はだれでも何かしら持っている。
スポーツは多くの人にとって身近であり、それゆえに娯楽として提示される試合は潜在的に面白い。
オリンピックはその競技を更に国単位で競い合う。
勝負を決した後に敵や仲間を称えあう姿は、純粋な感動をもたらす。
シンプルだからこそ、心に訴えかけるものがある。

そう、競技自体は面白いし、感動もする。

しかし、それは中止の決断をしなかった政権のおかげ、ではない。
それ自体はそもそもそういう性質のものなのだから。

五輪中に感染し、重症化した人は因果関係はなかったとしても心から五輪開催を肯定できないだろう。
しかし、多くの人は五輪開催は正しかった、もしくは感染とは関係なかった、と言うのではないだろうか。

私はこれまでの考察の通り、感染拡大についての因果関係については慎重になるべきだが、無観客で行うことは政治的に選択できる道理はないと考える。
オリンピック精神とやらが唯一生きているのはパラリンピックがあるからだと言われている。
それを中止にしようものなら、それこそ愚かの極みとなるが、IOCにとってはパラは利権に絡まないので中止でもいいと思っているかもしれない。
また、ここまで感染が広がる以上、有観客にすることも出来ないだろうが、何やらしようとしている。
やるなら無観客を通すべきだろう。
それこそが、この五輪騒動での唯一の正しい選択だと思える。


◆今後のオリンピックについて考える

スポーツは楽しい、オリンピックはもっと楽しい。
それは一つの現実として存在する。
今回たくさんの競技を観てそう思った。
 
しかし、オリンピックの歴史と現実を考えると、このままIOCの下でオリンピックを続けることには懐疑的である。
 
元々のオリンピック精神とやらを復活させるためには、恐らく選手かOB,OGが積極的に発信していく必要があると思う。
 
個人的には、一国開催をやめる必要があると思う。
会期は4年に一度でいいが、それぞれの競技が一番盛んな国、または力を入れている国、入れたい国で行う。放映権もその国が持つ。
それも夏とかに限定せず、1年を通して行う。
だから冬季五輪と分ける必要もない。同じ年に行う。
オリンピックイヤーとして1年通して盛り上がる。
それだとパンデミックが起きても、かなり柔軟に対応が可能だと思うし、選手も最大のパフォーマンスが発揮できる。
観客も開催日が年間で設定されて入れば色々な国にも行けるし、観戦も力を入れている国であれば盛り上がる。
 
一極集中が結局富の集中も招き、利権のために支離滅裂な強引開催へと結びつけたのだと考える。
 
 
この東京オリンピック2020が曝け出した五輪の実態と、今後も起こるであろう感染症パンデミックを見越して、よりよい次の時代を模索できないものだろうか。

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