シン・エヴァンゲリオン劇場版:|| 1回目の感想



※ネタバレありで書きます。
未見の方は読まない方がいいと思います。

新劇場版も最終章となりました。
前作の『Q』から9年。
1作目が2007年、2作目が2009年、3作目が2012年、そして最終2021年と、奇しくも”14年”の歳月をかけて完結した物語です。

私はテレビ版(1995年)をリアルタイムではなく、友人に勧められてDVDを借りて観ました。
その後の劇場版も一応観ましたが、記憶が曖昧です。
テレビ版は観直したこともあったのである程度は覚えています。

新劇場版も一度観ていましたが、今回、観直してから劇場に行きました。
一連の流れを汲んで観れたのはよかったと思います。
この完結までの期間、私自身も大きく成長、というか知識や経験を積んできたので、今観ると過去作の解釈や受け取り方が必然的に変化がありました。

私は自分で音楽や映画などを趣味で創作しているので、監督がこの作品に込めたメッセージが何かを主に考えました。
ちなみに、テレビ版について批評、解説系はほとんど見ていませんし、新劇場版に関しては一切見ていません。
キーワードとなる宗教、歴史、社会、科学関係の項目で分からないことは調べました。
新劇場版は庵野監督が株式会社カラーを設立(2006年)した後に制作された作品です。
ということは、かなり自由に自身のやりたいことができたと推測します。

テレビ版は観ているに越したことはないですが、新劇場版に関しては必ずしも必要ではないと感じました。
監督はこの4部作でしっかり完結できる脚本を書いたと感じます。

しかしやはり14年の歳月は人の成長過程においても決して短くない期間であると思います。
特に3作目の『Q』は東日本大震災の後、2012年末頃の上映であり、全編を包むダークな印象は、その影響を受けていないとは思えませんでした。
また、本作の前に『シン・ゴジラ』という実写映画を作っています。
これは震災をかなり意識した内容であったと思います。
そして本作の上映前には新型コロナがやってきて、上映開始が遅れました。


前置きはこれくらいにし、本編の感想に移ります。

監督のメッセージの対象は、テレビ版の放映時(1995年)に若者(中高大生)だった人、つまりリアルタイムでこのコンテンツを消費していた世代と、現代の若者であると感じました。当時の若者はロスジェネ世代ですね。
このコンテンツは主人公シンジの自我崩壊などが描かれて社会現象にもなり、ヒットしました。
その後も様々なメディアを通し、継続して消費されてきたため、40代前半より下の世代には馴染み深いものとなっていると思います。

当初のエヴァンゲリオンには具体的な社会的、政治的メッセージはそれほど強くなく、謎の多い設定や、個性あるキャラクターの機微を楽しむ、どちらかというとオタク向けコンテンツだったと思います。

それが新劇場版では社会性、政治性が強くなっていると感じました。
『序』『破』は従来の流れを踏襲してはいましたが、社会性は強くなっていたと思います。
特に綾波レイの扱い方からそれを感じました。

そして『Q』は完全にオリジナルスト―リーになり、一気にダークな展開になります。
多くの謎を提示して終わっているのもあり、前2作のような爽快感を期待した人は面食らったのではと思います。

どの程度震災が影響したかは分かりませんが、私は大きいと思います。
方向性は震災前に決めていたはずですが、その出来事により自然の脅威、科学への疑念、そして人間の生々しい『生』への渇望などが目の前の現実として認識可能になったことは、後2作に大きな影響を与えたと思います。

エヴァンゲリオンでおなじみのキーワード『インパクト』は、人災としての原発事故に相当するし、それを作ってしまった人間の『贖罪』行為に、エヴァ世界を構成するユダヤ・キリスト教的なアポカリプス思想が合致したと考えます。

言語化が難しいテーマを描くには、抽象的にならざるを得ません。
エヴァンゲリオンというコンテンツが持っている抽象性は、これらを表現するのに相性がいいのは間違いありません。
事実、『シン・ゴジラ』を作っているので、庵野監督が現実の脅威に対して無関心ではないことが分かります。

エヴァ最終章(以下シンエヴァ)はこれを踏まえて作られたと考えます。

シンエヴァはバトルシーン、復興シーン、異世界(抽象)シーンに分かれていると思います。


私が特に重要だと思ったシーンは復興(村)シーンです。
誰もが、「ジブリだ」と感じた、あのシーンです。
シンジ、アスカ、レイがニアサーから14年後の社会を体験するシーンです。
レイがこの社会で体験し、習得していく人間的情緒やシンジの成長は象徴界そのものだと思います。
こういったシーンはこれまでのエヴァではなかったのではないでしょうか。
一番大きなシーンだと思いますし、これが震災というリアル・インパクトを経験した日本において、庵野監督が感じた変化の現れであると思いました。
このシーンがなければ、今まで通りのエヴァであったと思います。
このどうしようもないニアサー(インパクト)後の言語化できない現実と、それでも言語を介してしか前に進めない関係性が、人間は1人で生きていけないのだということを痛烈に表現していたと思います。

しかしレイの存在できる環境はネルフというある種の観念世界だけであり、人間としての感情を宿したと同時に死を迎えてしまう、というよりレイはネルフに戻らずに自分の意思で死を選択した。
レイはシンジの母、ユイの生まれ変わりでもあり、ゲンドウのネルフでしか生きられない。
しかしシンエヴァのレイは村での生活で生きることとは何か、人間とはどんな生き物なのかを体験し、自我に目覚める。
シンジを守る、というのは母であるユイの意思が組み込まれているのだと思うし、プログラムされた”好き”という感情も異性としてではなく母性なんだと思います。
シンジは母の記憶がなく、この喪失を成長したレイが埋めて(包摂して)くれたため、ニアサーの深い自責の念から解放され、父ゲンドウに向かう決心をしたのだと思います。父に認めてもらうのではなく、父を超越する(父殺し)ことを。
シンジがエヴァに乗る意味はゲンドウと真正面から向きあうためであり、これらは親離れを意味し、1人の人間として自立することを示唆していると思います。

エヴァンゲリオンは居場所の存在と満たされない承認欲求が当時の若者の共感を得ていたと思いますが、テレビ放送からは25年経過しており、その過程(文脈)をシンエヴァはリアルなニアサーからの復興シーンとして挿入しました。
これがとても大きい変化だと思いますし、エヴァ幻想の終結を納得させるシーンだったと思います。
ニアサーからの復興は明らかに震災からの復興を重ねていると思われます。
昨今のサブスクによるフィクションの大量消費が現実からの逃避(消費による去勢)を加速させるのではないか、という危惧も同時に感じさせてくれるシーンです。
エヴァというコンテンツが現実の生を生々しく、まさにジブリ的な表現でこのシーンを描いたことは衝撃です。

物語の人物も成長するし、これを作った制作側も成長し、かつ消費する人もまた成長していなければならない、といった現実に向き合うことを促すメッセージ性を感じました。それは震災があったからより強くなったと思います。
『インパクト』は非現実の虚構ではなく、現実に起こったのだ、と。
原発震災は局地的な『インパクト』でしたが、コロナパンデミックはそれを世界共通化してしまいました。
シンエヴァはそういった文脈抜きには語れないのだと思います。

次に重要なシーンは、ラスト直前の父殺しを決意したシンジとゲンドウの対話でしょう。
ゲンドウもまた殻に閉じこもった内向的な人間であり、ユイによって救われたことをシンジに告解する。
(エヴァという器に搭乗しての)暴力では本質的には何も解決しないこと、不完全ながらも言語によって語るしかないことを、現実から逃げているだけでは何も解決しないこと、正面から向き合うことで解決すること、などメッセージ性がとても強いシーンだったと感じました。
言葉は不完全だけどそれを使用するしか理解しあえない、というのは、ラカンの象徴界の説明が腑に落ちます。
アスカもまたシンジと向き合って対話することでわだかまりを払拭し、成長しました。

ヴィレではミッションに参加する『若者』にもスポットを当てていました。
特に『男子』という言葉も添えていることが、去勢されつつある男性社会に対する男の在り方をも示唆しており、興味深かったです。

シンエヴァはネルフ(パターナリズム)とヴィレ(ジェンダーフリー)という分断が象徴的でもありました。
ネルフは人間性よりもシステムやロジックを重視する冷たさを持ったある種の合理性で動く組織でありますが、葛城ミサト率いるヴィレは人間中心主義の温もりを宿した組織で、不完全な人間を肯定的に捉える組織であると感じました。
これも、ネオリベラリズムによって破壊されていく人間性に対して、このままでいいのか、という強いメッセージ性を感じました。

ラストの、”神”になろうとした父ゲンドウの罪を贖罪して回るシンジからは、エディプスコンプレックスを乗り越えたことを感じさせます。
そして駅のシーン。
マリがシンジに目隠しをして問うシーンですが、胸が大きい、という言葉にそぐわない画であったと記憶していますが、これはちょっと曖昧です。
胸の誇張はアニメではよく行われていますが、このカットはそうでなかったと思いました。
そしてシンジの声が変声期後の、男性のそれに変わっていました。
ふたりは街に出ていきますが、そこは実写映像へと切り替わっていきます。

このラストシーンは、エヴァというフィクションは終了し、このコンテンツを消費してきた人たちを現実世界へ戻すための演出ではないかと思いました。
と同時に、今現実に起こっていることへの関心を促す、親心的な、または必要な儀式的な断絶とも受け取れました。

これまでのエヴァが宗教的な観念が強かったのに対し、新劇場版はリアルな人間性、人と人との関係性にスポットを当てており、それは序と破でも感じることは出来ました。
震災が起こったことで『Q』はやや混沌とした抽象表現を行い、『シン』はそれを現実的な世界に落とし込み、希望へと昇華させ、完結させたと感じました。

カタカタで『シン』としたのは、シンという響きから連想する漢字を色々当てはめてみると面白いと思います。
真、信、心、芯、新、親、進、辛、深、審、侵、神、身、娠…


以上が1回目の感想です。


以下余談です。

★他の登場人物について思ったこと

・冬月コウゾウ
ゲンドウの暴走を止める役割?
この計画に乗ったことの贖罪(責任)のためにゲンドウに最後まで従い、ヴィレに希望を託した?

・渚カヲル
異世界(宗教的世界)と現実を繋ぐ役割を持った超自然的な存在?
インパクトのトリガーを誘発するための存在でもあるし、シンジにとっては自分の存在を理解し肯定し、導いてくれる同姓として鈴原らとは違った甘い理想の具現化した存在?

・真希波・マリ・イラストリアス
ネルフとヴィレを繋ぐ調和的存在?
またゲンドウや冬月、ユイの関係者として、母の代理としてシンジを包摂する存在?
イスカリオテのマリアとはパターナルなネルフを見限ってジェンダーフリーのヴィレに行った、つまり女性に自立の体現者として描いているのだろうか。そうした女性がラスト、シンジを現実へと誘うと考えると腑に落ちる。