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これどうするんだ?立憲民主党の代表に野田佳彦氏が選ばれたが……。

野田氏は旧新進党出身で、公明党や創価学会と接点がある。
また、それだけでなく、この人は松下政経塾第一期生(松下電器産業創業者松下幸之助氏主催。次世代国家指導者育成を目的とした公益財団法人)なのだが、雑誌『週刊朝日』編集部記者の鈴木毅氏によると、その関係でも創価学会との強力な繋がりがあるという。

 鈴木氏によると、松下氏と池田氏の交流は松下政経塾が設立される以前からあり、松下氏がその構想を語る会談が行われたという。その際、松下氏は池田氏に対し「(政経塾の)総裁になりませんか?」と発言をするほどだったそうだ。「その場では池田氏は断ったが、もし承諾すれば実現していただろうし、その前後にも政経塾についての相談をしていた」と鈴木氏は語った。

■松下氏は池田氏に「お父さんと呼ばせて」と言った!?

 また松下氏は当初、創価学会の組織としての結束力の高さや、政治的関心の一致などによって池田氏に注目していたが、交流を重ねる内に「探り合いから心の交流へと変わっていった」そうで、池田氏の呼び方も「池田はん」「池田先生」「先生」となり、最後には「お父さんと呼ばせてください」と発言をするに至ったという。

 松下氏は創価学会員ではなかったが、池田氏との交流は最初に対面をした1967年から20年くらい続いたという。この両氏の関係について『週刊朝日』編集長の山口一臣氏は、「貧しい家に育ち、病弱な体でありながら、一組織のカリスマ経営者になっていった部分に共鳴し合ったのではないか」と分析した。

 このような経緯があるため、創価学会が支持母体である公明党は、松下政経塾出身の野田首相に対しても政治的な関係があるという。

野田首相を輩出した松下政経塾に「池田大作との接点」
2011年11月13日 16時37分 ニコニコニュース

国政へ
1992年(平成4年)に松下政経塾の評議員の1人だった元熊本県知事細川護煕の下で、小池百合子前原誠司山田宏樽床伸二中田宏らとともに、日本新党の結党に参加。翌1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙旧千葉1区から立候補して、選挙区内で最も多くの票を得て初当選した。この総選挙では日本新党ほか新生党新党さきがけが党勢を拡大して自由民主党を過半数割れに追い込み、8党派による連立政権が誕生するが、細川内閣羽田内閣はともに短命に終わり、非自民・非共産連立政権は10ヶ月で幕を下ろした。直後に野党による新党(新進党)結成の機運が高まり、野田も1994年12月の結党に参加した。衆議院議員になった1993年(平成5年)夏、地元の千葉県に松下政経塾の地域政野田佳彦経塾である千葉政経塾を地元の有志たちと共に設立している[10]

小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では千葉4区から新進党公認で立候補。同党は1つの例外を除き、各比例ブロックにつき1人しか重複立候補を認めない方針を取っていた。そのため得票数1位の自民党の田中昭一とわずか105票の差で落選した(これは2023年1月現在、衆議院選挙の小選挙区において3位の記録である。接戦選挙#国政選挙1人区を参照)。落選後に新進党を離党し、1998年(平成10年)に結成された民主党に入党した。

野田佳彦 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

その他、ソースが削除済みの為に出せないが、2005年の郵政選挙区で、小選挙区で勝ちはしたものの、野田氏12万9834票(得票率44.90%)に対して自民・藤田氏12万8890票(得票率44.57%、惜敗率99.27%)とあわや落選の危機に瀕した事から、選挙の怖さを痛感し、その事が原因で統一教会に急接近し、選挙支援を受けようとしていた、との情報が流れた事があった。

創価学会は新進党出身の議員には同党解党後も選挙支援を続けており、学会票を出し続けていたと言われているが、この郵政選挙だけは例外で、学会票を引っ込めた為、当時の民主党の新進党出身者、特に民社党の大物議員が軒並み落選したと言われ、学会票の恐ろしさを物語る出来事して語り草になっているが、野田氏が自民候補にあわやのところまで迫られたのも、貰っていた学会票を下げられた為だと考えると、合点がいく。

またこのような状況にあったのだとすれば、創価学会に変わる票を出してくる団体を探し、統一教会に行き着いたというのはごく自然な流れであるので、情報が事実であった可能性は十分考えられるのではないかと思われる。

また、こういった報道もされている。

鈴木宗男前衆院議員が、獄中から「野田だけはダメだ」という声明を寄せたのだ。

(中略)

 ムネオの言う「十字架」とは、06年の「偽メール事件」だ。前原代表時代、予算委員会で質問に立ち、メールの存在を示して自民党を追及。結局、このメールがガセと判明して永田は議員辞職に追い込まれた。当時、永田の質問にゴーサインを出したのが、国対委員長だった野田である。メールの裏取りもロクにせず、イケイケで永田をけしかけた。当時の事情を知る民主党関係者が言う。

「永田氏は、選挙区が隣の野田さんを兄貴分と慕っていました。偽メール事件で、当初は野田さんも永田氏を手放しで褒めていた。ところが、ガセと分かって批判を受けると、野田さんは永田氏をかばうこともなく、議員辞職するよう説得したのです。野田さんはかつて『永田のことは墓場まで持ってくしかねえなー』と笑いながら話していたものです

 野田の説得に折れて議員辞職した永田は、その後、徐々に精神に支障をきたし、09年1月にマンションから飛び降りて命を絶ってしまった。

 弟分の命も救えなかった野田に、国民生活が救えるわけがないのだ。

獄中のムネオが民主議員にメッセージ「野田だけはダメだ」 日刊ゲンダイ 2011年8月15日

この偽メール事件自体、公明党と創価学会の強烈な追及者であった永田寿康衆院議員を社会的に抹殺する目的で創価学会が仕掛けた謀略であったとする説があるが、この説が事実だったとして、偽メール事件時、野田佳彦氏が創価学会との繋がりを持っていたとすると(党代表の前原氏は夫人が学会員であり、その関係で氏自身も創価学会との太い繋がりがあると言われている)、「『永田のことは墓場まで持ってくしかねえなー』と笑いながら話していた」というのは、単に野田氏にサイコパスの性質があるといった話でなく、もっと恐ろしい謀略の意図を含んだ意味合いに変わる。

野田氏が代表になった以上、野田氏のバックに控えているのが新進党を結党した小沢一郎氏であり、小沢氏は持論として、公明党を自民党から引き剥がし、民主党と選挙共闘(政権獲得後は連立)させれば政権基盤は盤石となり、安泰する、その上で自民党の集票システムを政権党の権力を行使して完全解体に追い込んで自民党を解党させる(=長期政権の樹立が可能である)、と語っている事から、公明党を揺さぶりつつ、創価学会幹部らに小沢氏ら立憲民主党の幹部らが水面下で交渉を行い、その戦術の成就に向けた動きを取る事は明白だ。

現在、創価学会は、総体革命路線(※政官財界・言論・医療・司法・報道その他、各界に学会員を送り込み、内側から掌握する事で、日本全体を支配しようとする無血革命路線の事)を成就させた。

また、学会票が当落を決める自民党議員が100名、或いはそれ以上ともされ、公明党の衆参両院議員を足した数は自公政権内の最大グループだ。

つまり衆参両院は実質的に創価学会の支配下にあり、こと菅義偉政権時には、総理の政治力の源泉が学会との太いパイプにあった為、総理を経由して内閣自体を完全掌握するといった我が世の春を迎えている。

日本は文字通り、創価学会の間接統治下にあるカルト国家だ。

おまけに統一教会までが自民党に侵食し、議員秘書として信者を大勢送り込む事で議員や党、党幹部らの弱みを握り、選挙支援した議員の一部をマインドコントロールして信者として取り込み、大勢の信者を入党させてアクティブ党員(政党の党員は幽霊党員が多く、アクティブな党員は非常に少ない為、統一教会のような信者の余り多くない団体でも、党を乗っ取る事は十分可能)とする事で、政策や路線の決定に強力な影響力を行使し、信者を自民党候補にして当選させて議員にしたり、支援していた議員が党の幹部となると、その幹部を経由して自民党全体に強い影響力を行使するといった、国民の目に見えない形での、極めて合理的、かつ、効率的な手法で自民党を制御下(統制下)に置いていた事実まで判明した。

つまり日本は統一教会の間接統治下にもあったのだ。

創価学会と統一教会という二大カルトに間接統治されたカルト国家。

これが紛れもない現代日本の実態である。

かような状況は言語道断であり、野党は反カルトで一致団結して、自民公明創価統一連合カルト政権に対峙し、政治をカルトから国民の側に取り戻すべきだが、維新の会も統一教会に汚染されており(一部は公明党・創価学会と繋がっているとも)、最大野党の立憲民主党も、遂にカルトによる間接統治を容認するカルト側の政治家である野田氏が代表になった事で、完全にカルト側に転落してしまった。

国民の中には、特にカルトの元信者の人達を中心に、反セクト法の制定を求める声が非常に強く存在し、カルト宗教を根絶して欲しい、被害者を救済して欲しいという声が挙がっているのだが、最大野党の立憲民主党の代表が、カルトによる間接統治を容認するカルト側の政治家である野田氏になってしまった以上、反カルト政権の樹立を求めている国民の願いは完全に頓挫してしまった事になる。

極めて憂慮すべき事態だ。

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