愛情崇拝

あらすじ
 日本のどこかに、圦河町という町がある。本当になんの特徴もない町で、なにか名産がある訳でも名所がある訳でもなく人が外からわざわざやって来る理由が全くない町だった。物流も普通で、インターネットの普及率が悪いという訳でもない。人間の出入りという観点で見れば閉鎖的とも言える静かな町だ。ただ唯一この町で特徴と言えるものがある。それは、「愛」を重要視する人間が多く住んでいることだ。愛とは、それを扱う人間と環境によって様々な姿に形を変える。人の数だけ愛の形があり、それはきっと全てが尊重されるべきなのだ。ただ気をつけろ。愛にしろ恋にしろ、それは目の前が見えなくなってしまうものだ。特に、この圦河町の中では。

プロローグ
また妻と喧嘩してしまった。原因は子供との接し方。どうやら僕は少々子供相手に強く言いすぎるところがあるようで、子供はのびのび育ってほしいと考える妻にとって僕は邪魔な存在なようだ。ため息をつきながら焼肉弁当の紐を引っ張る。車内に肉を熱する音が鳴り、直ちに焼けた肉のいい匂いがしてくる。頭を冷やすための遠征取材とはいえこればっかりはやめられない。熱されて間もない弁当を平らげると、抗いがたい睡魔がやってくる。私は取材先の圦河町に思いを馳せながら眠りについた。

一章〜八分咲き〜

1,この町
圦河町、朝。その一角のある児童保護施設に一組の母子が訪れていた。

「今日もよろしくお願いします。」
「いえいえ。では、お預かりしますね。」

この児童保護施設では身寄りのない子を保護してそのまま面倒を見ているのだが、それだけでなく保育園としても運営が行われている。ここで預ければ普通に子供を預けるよりもかなり安く済むため重宝しているし、施設の先生が主に運営を担当してくれているから特に大きな問題もない。私は子供を預け職場のドラッグストアに向かう。もう四年も使ってきた見慣れた道を通って職場につくと、休憩室に後輩の杏利がいた。

「あ、天道先輩。おはようございまーす。」
「おはよう、杏利さん。」

彼女は少し私の顔を覗き込んで、言う。

「天道さんっていつも大変そうですよね〜」
「そうかな?」
「そうですよ。家事も育児も一人でこなして、そのうえしっかり働いて。私には絶対真似できないっすわ。」
「そんなことないよ。私は今を過ごすだけで精一杯だもの。」

とはいったものの。実際に私は今、一日に実現可能な行動量のギリギリを行っている。元夫の不倫が発覚してから二年。慰謝料や養育費などで受け取った金銭はあれど、親が一人だと人手もお金も足りない。この上で仕事も家事も育児もこなすとなればもう私が一日に使える時間はなくなってくる。

「じゃあ私は訪問販売の方にいってくるね。」

そういって私は余裕そうな笑みを浮かべて店を出る。このドラッグストアには訪問販売というシステムがある。店がプラ板を配り、それがかかっている家庭に赴き傷薬が足りていない家には傷薬を、個人の常備薬を必要としている人には専用の薬を補充するというものだ。直接お客さんとコミュニケーションを取るため人との会話が好きな私にはうってつけの仕事だ。

「訪問販売で〜す。なにがご入用のおくすりはございますか?」

必要な薬を聞き、それを補充する。午前は私が町の半分を、午後は杏利がもう半分を担当して、その日の訪問は終わりだ。店の従業員は三人しかいないため大変そうに見えるが、大体の家の欲している薬は概ね分かるしこの町がそこまで大きくないのもあってこれでも十分なのだ。移動を続け、町の端についた。するとそこにある家にも例のプラ板がかかっていた。四年この仕事を続けているが、この町の端の家の対応だけはいつになっても嫌悪感が溢れてくる。

「ごめんください。訪問販売でーす。」

呼び鈴を鳴らして声をかけると、すぐにドタドタと音がして一人の男が玄関に姿を表した。彼は見るからに不健康そうな太った姿で、こんな事は言いたくないが見ているだけで生理的嫌悪感が襲ってくる。なんの仕事をしているのか全く想像がつかない。

「なにか必要なおくすりはございますか?」
「ふふ。そ、うだね。今回はいつもの常備薬だけでじゅう、ぶん、かな。ふふ。」

彼はこっちを向き、顔をのぞいてくる。私が特にいつまで経っても慣れないのは、彼のこの目だ。最初にあったときはそうでもなかったのに、回数を重ねてから彼はどこか私に期待を持った目をするようになった。なにを期待しているのかはわからないが、その内容はなんとなく想像がついてしまう。四年も経ってなにもなかったのだから大丈夫だと思いたいのだが、いつかなにか起こるのかと思うと恐ろしい。かといってなにか実害を及ぼしたわけではないからここにだけ訪れないというわけにもいかない。私は仕事を手短に済ませ、さっさとドラッグストアに戻った。

「只今戻りました。」

休憩室に入ると、杏利が弁当を食べていた。

「おかえりなさーい。」

彼女は弁当箱の中の卵焼きを掴み、私に差し出してくる。

「いります?私の愛情たっぷりですよ。」
「いや、いいよ。私は私のお弁当があるし。」
「ふーん。」

いつものことながら彼女の食事は目に入ってしまう。なんせ彼女は箸もスプーンも使わず素手で食事をするのだ。卵焼きをつかみ、からあげをつかみ、米をつかむ。一度一緒に外食をした際も彼女は躊躇せず手を使って食事をしてきたので、それから彼女との外食は遠慮するようにしている。彼女に素手で食事をする理由を尋ねたことがあるが、その理由は「そのほうが食べやすいから」というものだった。他にもこの町には様子がおかしい人がたくさんいるが、長くここに住んでいるせいかそんなことにはもう慣れてしまった。
そんな事を考えていると、休憩室のドアが開いた。

「お、天道さん。訪問販売の方はどうだった?」
「なにも問題ありませんでしたよ。いつも通りi-Regeの減りが早いくらいですね。」
「オッケーオッケー。足しとくわ。」

彼はここの店長の鍵谷 真琴さん。薬剤師の資格を持っているけど、ひょうひょうとしている上に気弱なところがあるせいか頼りがいに欠ける人物だ。

「今日はどう?なんか問題あった?」

テレビを付けながら店長が質問する。

「だからなにもなかったですって。まあ、あの家のあの人だけちょっとなんとかしてほしいですけどね。」
「あぁ、あの人ねぇ。」

そんなことを言って、店長もあの男と似たような目をしていることに気づいてないみたいだが。

「あそこのヤツ人間とほとんど接してなさそうだし、先輩狙われてるんじゃないっすか?」
「だとしたら...嫌だなぁ。」

そのまま三人で昼食を済ませて私はレジ打ちに、店長は事務作業に、杏利は訪問へ向かった。朝は訪問販売で体力を持っていかれるが、昼からのレジ打ちもなかなかに疲れる。訪問販売の甲斐あってお客がわざわざ店に買い物をしに来ないため特に変化もないまま立ちっぱなしだ。買いに来たとしてもお菓子目的の数名であったりして結局暇であることに変わりはない。お客がいないときくらい椅子に座っても良いだろうに。そのまま今日も滞りなく業務は進み、閉店の時間になった。

「はいみんなおつかれ。あとは俺がやっとくからもうあがっていいよ。」

店長は子持ちの私を気遣ってかいつも閉店作業もそこそこに私を帰らせてくれる。数少ない彼のいい所だ。

「お疲れさまでした。」

準備を整えて施設に向かった。

「すいません、天道ですけど武久いますか。」
「ああ、お疲れ様です。武久くーん。お母さん迎えに来たよー。」

朝にも会ったあの人が対応をしてくれた。少し待っていると奥から眠そうな顔をして武久が出てくる。

「今日もありがとうございました。これ、今回の分です。」

子供を引き取り、帰路についた。

「たけちゃん、今日はどうだった?」
「うん。楽しかったよ。いつもみたいにあくつくんが先生におこられてた。」 

あくつくんは施設に行きだしてからずっと仲の良い親友だ。あくつくん自体は施設で暮らしている。

「あくつくんいつも怒られてるねぇ。やんちゃなのかな?」
「あくつくんが先生をおこらせるからだよ。おこられるってわかってるんだから黙ってればいいのに。」
「あくつくんはなんて言ったの?」
「えっとね、「先生、僕は先生のお化粧ポーチを盗んでしまいました。どうか僕を罰してください。」って言ってた。」

どうやら施設では「宗教ごっこ」が流行っているらしい。

「懐かしいなぁ。お母さんも小さい時やってたよ。お母さんの役はいっつも決まって教祖様の幹部だった。」

小さい頃を思い出して感傷に浸っていると家についた。ご飯の準備をして2人でいただきますをする。こうして子供と団らんしていると今私は幸せなんだなと感じる。子供を寝かしつけて残った家事を済ませると、私もベットに入った。

…なんだろう、何か足りない。
いつも通りの変わらない日々。忙しいけど充実した、子供の将来への期待に胸焦がす日々。これが私の日常だ。充実している。満足している。満ち足りている。そう思うべきだ。この町の人間には誰しも少しおかしなところがある。きっと私のおかしなところとはこの消えそうにない不満感なのだろう。子供は可愛い。物静かだが幼くして強かで、それでも年相応の感性を持っている。職場にもさして不満はない。強いて言えばあの家での接客が嫌ってくらいだ。仕事も家事も育児も、いっぱいいっぱいだが苦ではない。
…でも、なにか足りない。
この不満感が一生残ることへの不安が私の周りにつきまとってくる。
しかしこんなことは考えるべきことでは無い。今以上を望むのは罰当たりというものだ。彼女はそう思い、眠りについた。

寝返りによってベッドが軋む音。彼女が発する寝息。彼女が眠るベッドの下で男が一人鼻息を荒くして、布団を挟んだ上にいる彼女の存在を感じていた。

2,視線
ここ一ヶ月、どこからか視線を感じる。常にというわけではないが誰かが私を見ている感じがする。家にいるときも仕事をしているときもふと意識したときに違和感を感じて、最近睡眠不足がひどい。何かあるのではないかと思って部屋を隅々まで探し回ったが、人はおろかなにかしらの機械すらも見つからなかった。杏利や店長に相談もしてみたが、杏利は「動き過ぎで疲れてるんだろう」といってまともに取り合ってくれないし、店長も心配こそしてくれたがあまり関わってくれそうにはなく、それどころか杏利の食事を見るときのような目を私に向けてきた。みんなはああいうが、私の感じる視線は決して被害妄想などではない。心当たりはある。町の端の家に住むあの男だ。きっとあの男がついに私に害をなしてきたのだ。そう思ってから三週間ずっとあの家を訪問する時は十分注意して様子を見てきた。すると、気のせいなのかもしれないがあの男は私のことをいっそう気持ち悪い目で見てくるようになっていた。あの目にはもはや期待だけでなく劣情も含まれている。そんな気がした。
ストーカー、か。昔、同じような事件があったことを思い出す。まだ私が大学生の頃寮で生活していたとき、ある日を境にどこからか視線を感じるようになった。でもその時の犯人はすぐに捕まって、結局私のことを観ていたのは同学年の男だった。小汚いって言葉がピッタリはまる男だと揶揄されていた子で、なんでストーキングをしたのかと聞いたらその子は一目惚れだと答えたんだ。私は昔から外見でよく人に好かれるせいで結構色々なトラブルに巻き込まれてきた。外見絡みのいざこざはあれが最後だったけどあの時の遺恨は今でも残っているし、私自身あの事件のことは未だに許していない。そういえばあの時は、友達が私の境遇に共感してくれて調査を手伝ってくれたからすぐに犯人が捕まったんだっけ。
今、あの時と比べてこの現状に共感してくれる味方がいないことに強い不安を感じた私は、やっぱりもう一度店の二人に話を聞いてもらうことにした。

「杏利さん、店長、ちょっと話があるんです。」

私は事のあらましを説明した。ふたりともまたその話かという態度を取っていたが、あの男の事は前から少しずつ議題になっていたので一応話は聞いてくれた。話し終わると店長は困った顔をしながらも一つ提案をしてくれた。

「僕は、あの家の親御さんの連絡先を持ってるんだ。プライベートな話も少しなら可能なくらいの関係値もある。少し聞いてみるよ。」

乗り気ではないが店長も助力をしてくれるみたいだ。杏利も、あの男の気持ち悪さに共感してくれたようで話を積極的に聞いてくれるようになった。
次の日、例の家にプラ板がかかっているのを確認すると私は決心を固め、自分でも調査をすることに決めた。

「ごめんくださーい。ご入用のおくすりはございますか。」

チャイムを鳴らして声を上げるとすぐに彼は姿を表した。

「こ、こんにちは。き、今日は早いんですね。ふふ。今日もいつもの常備薬を、お、お願いします。」

彼は少し興奮しているようだ。声が少し上ずっている。

「わかりました。...そういえば、お客さんって最近なにされてるとかありますか?」

そう聞くと、さっき以上に彼の目が泳ぎだした。小刻みに震える体から汗が飛んできそうでヒヤヒヤする。

「え、え、え、ど、どういう意味ですか。」
「いえ、別になにも。ただお客さん薬の消費量が普通より多いんで、生活習慣を聞いてこいって店側から言われたんですよ。」
「そ、そうですか。」

生活習慣を聞いてこいなど一度も頼まれたことはないが、この男の薬の消費量が多いのは事実だ。説得力は大いにあるだろう。それにしても思っていたより動揺が大きいな。これが私への好意からくるものなのかそれともストーカー行為の図星からくるものなのか判別はつきづらいが、このリアクションだと後者である可能性もなくはなさそうだ。

「せ、生活習慣は、日によって違います。さ、最近してること...も...ま、まあ、インターネットを回ったり...ですかね。も、もちろん外にも出てますよ。休日にあるイベントとか、飲み物の買い出しとか。」

インターネット、か... 
私は少し身構え、質問を続ける。

「ネット。最近なにを見てるとかあります?」

そう聞いた途端、彼は怯えるような、驚いたような目で私を見てきた。体の震えも健在だ。どうやらなにかやましいことをしていることは間違いないように見える。

「最近、さいきん、なんて、な、なにも見てないよ!もういいだろ、帰らせてくれ!」

そういうと彼は私に背を向けて家に戻ってしまった。
ここまで怪しいとなってはもう疑わざるを得ない。しかしあの男はどうやってあの体で私にストーキングなど行っているのだろう。もし電柱に隠れたとしてもあれでは体がはみ出してしまう。カメラだって、何回確認しても家にはなかったんだから盗撮のしようがないはずだ。その後のレジ打ちの時間もずっとその事を考えていた。昼休憩の時に二人に例のことを話したが、決定的な証拠がないからまだ待とうという結論で終わった。ああもう、しょうがない。考えても答えが出てこないんだからもう今日は帰って寝よう。もう疲れた。その日の業務も大して忙しくない、何も考えないのにはピッタリなレジ打ち業務だった。

その日の夜、武久といっしょにテレビを見ながら話していた。

「そういえば今日はあくつくんとはなにかあった?」
「そうだ。今日は久しぶりにあくつくんと宗教ごっこができたんだ。いつもはあくつくんがひとりでやってるから一緒にやるのが難しいんだけど、今日はためしに教祖を僕にしてやってみようって言ってさ。」

そう話している間も、ちらちらとどこからかの視線を感じる。こんな部屋に隠れる場所なんてないって言うのに視線の正体を探したくなってキョロキョロしてしまう。

「僕が教祖様だから、信仰する神さまをなににするのか決めれたんだ。だから僕はお母さんを崇める宗教を作ったよ!お母さん、聞いてる?」
「え、あ、ほ、ほんと?お母さん別に崇められるほどすごいことしてないよ?」
「そんなことないよ。お母さんってきれいじゃん!」

そうだ。私は容姿に恵まれている。このストーカーも、きっとそれが目当てだ。

「でも最近のお母さんはなんかもっとかわいい!」

今容姿を褒められてもあまり良い気はしないが、子供からの素直な感想だ。受け取っておこう。流れていたテレビの番組が入れ替わり、ドラマが流れ出した。もう良い時間だ。

「じゃあ武久、今夜はもう寝ましょうね。」
「はーい。」

寝室に入ってすぐ、なんだか寝室が少し汚れているように感じて、掃除機を取り出して軽く床の掃除を始めた。すると、ベッドの下に掃除機を入れた時、なにかが掃除機に挟まった。持ち上げてそれを見てみると、それはソイジョイの空袋だった。なんでもないものが詰まっただけだったが、私はその空袋がすごく不気味なものに見えた。

「お母さん、まだ寝ないの?掃除機うるさいよ。」
「あ、ああ、ごめんね。すぐ寝るから。」

そう言い、空袋をゴミ箱に投げ入れた。

それからまた次の日、いつも通り昼の業務をこなしていた。今日もあの家はプラ板を出していて、昨日あれだけ詰めたせいかかなりしょぼくれた態度になっていた。いつもより早く会話が終わってせいせいするが、冷静に考えてあの不健康に大きくなった身体ではストーキングなど不可能だ。あそこまで疑ってかかるのはよくなかったかもしれない。そう考えていると、店長が慌てて休憩室から飛び出してきた。

「天道さん、これは思ったより大事かもしれない。」

そう言って彼はスマホの画面を見せてきた。思考が止まった。そこには、朝私がタンスの前で着替えているところが写っていた。

「例の件であの家の親御さんに少し調査をしてもらってたんだ。それで、君が薬の対応をしている間に息子さんのパソコンを覗いてくれたみたいなんだけど、開きっぱなしの画面にこの画像が写ってたみたいだ。向こうの人が機械に弱いらしくて写真が届くまで時間がかかったんだけど。で、その写真を画像検索で調べてみたら、盗撮写真を投稿するサイトがヒットしたんだ。まずいよ、ネットにアップロードされてる。」

信じられない。脳がショートしていた。体の震えが止まらない。ずっと感じ続ける視線だけでも相当嫌だったって言うのに、もうすでに手遅れな所まで来ていたなんて。

「今日は店はもういいよ。一回家に帰ろう。僕は警察に連絡するから。」

おぼつかない足取りで家に帰る。帰りには、店まで飛んで帰ってきた杏利が付き添ってくれた。

「大丈夫ですか?天道さん。」

返事の代わりに頷く動作こそしたが、もう頭は動いていなかった。これが、晒されるということなのか。

「もっと早くからちゃんと話聞いとけばよかったです。ほんとに申し訳ないです。」

杏利は別になにも悪くない。悪いのは...
そう考えていると、家についた。

「武久くんは私が引き取ってきますんで、先に待っててください。」

ありがたい。杏利が後輩で良かったと心から思った。脳みそがはっきりしないままに家に帰る。いつもの見慣れた落ち着くべき場所。しかし今そこには、なにかおぞましいものが住み着いているように感じた。違う。私が求めていた変化とは、こんな気持ち悪いものではない。もっと私の不満感を埋めてくれる何かであるはずだ。きっとこれは、バチが当たったということなのかもしれない。必要以上を求めてしまった私への罰。満足していると感じられていたはずだったのに、それ以上を求めてしまった罰。
ああ、色々考えているうちに、のどが渇いた。冷蔵庫からお茶を出そう。そう思って立ち上がった。踏みしめる床も、部屋中に満ちた空気も、何もかもがおどろおどろしい。私の中で恐怖とか嫌悪感とか恥ずかしさとかが渦巻いていて何が何だかわかったもんじゃない。窓を見ると、空は曇り。天気予報ではこの後に雨が降るって言っていたはずだ。私の今の心は天気なんかでは表せないほど気持ち悪いものだ。天気予報士にすら怒りが湧いてくる。どうして、こうなったんだ…?
色んな感情が渦巻く中、冷蔵庫を開けた。

冷蔵庫の中に、目を大きく見開いて凍死している男がいた。

3,動画
もう僕は、十四歳になった。中学二年生だ。お母さんの友達の人に連れられて家に帰ったあの日から、お母さんはなんだかおかしくなってしまった。ずっと「誰かが、あの男が、私を見てる」みたいなことを言ってる。家事はやってくれるしお金も稼いでくれているみたいだから生活に問題はないけれど、今のお母さんからは活力というものを感じない。まるで抜け殻になったみたいに、ずっと虚空を見続けている。
それに、お母さんはときどきヒステリックを起こすようになった。誰かが自分を見ているという感覚が強くなる時があるらしくて、そのたびに何度も何度も引っ越した。あと心配したお父さんが様子を見に来たりしたこともあった。まあ、お母さんは見向きもしてなかったけど。引越しを何回もしたおかげで今はもうあの町から遠く離れた田舎に住んでる。またいつ引っ越すのかはわからないけどこの辺はのどかで楽しい。あくつくんは元気かな。あの時、引っ越しが決まったのがあまりにも急だったからちゃんとお別れを言えなかったのが気がかりだ。もっとも彼は僕と遊んでいるときも僕と話しをしている時もずっとどこかわからない場所を見続けていたし、一緒にしてくれた遊びはほとんど宗教ごっこだけだったけど。
今考えてみると、あの町はなんだかおかしかった。宗教ごっこなんてやっていたのはあの町だけだったし、何より引っ越し始めてから周りの大人たちの目つきが朗らかになった。今思えば、あの街に住んでいた人は殆どがみんなおかしな目をしていた気がする。僕と目を合わせて喋っているっていうのに相手の目にはまるで僕が写っていなくて、ただ目玉がそこにあるだけのように感じられる目だった。お母さんもおかしくなってからはずっとそんなふうな目をしている。
まあでも、今の僕にあの町がどうだったかなんてもう関係ない。僕が目を向けるべきは過去じゃなくて今だ。今僕は、全校生徒が七人しかいない学校に通っている。僕が引っ越してきたときもとても暖かく迎えてくれたしいい人ばっかりだからとても気に入っている。お母さんもどうやらこの場所を気に入っているようでここ二年は引っ越しの話は出ていない。この辺の人は本当に優しい人が多い。そもそも人が全くいないから犯罪なんて起きないし、人が少なくてもみんなで支え合って生きていけているからなんの問題もない。お母さんもきっと、そういうところが気に入っているんだろう。この辺に来てからはお母さんとのコミュニケーションも少しずつ取れるようになってきた。このまえなんか「スマホがほしい」といったら、僕が学校に行ってる間に街まで行って買ってきてくれたりしたほどだ。
そうだ。スマホといえば最近とてもいいことがあった。ちょっと前、クラスで僕がスマホを買ってもらったことを自慢したら、三人しかいないクラスメイトの内の一人男の子がおすすめの動画を教えてくれた。その子は和涼くんといってちょっとむっつりな子だったから、教えてくれたのもそういうちょっとグレーなサイトの動画だった。すると、話を聞きながら画面をスクロールする中で特別目に止まった動画があった。その動画を見つけた時、すごく心臓がドキドキして落ち着かなかったのを覚えてる。そこには、あの町のあの家で、着替えをしているお母さんの姿が写っていた。それを見つけてからはもう、和涼くんの話なんて僕には聞こえてこなかった。その後の授業も全く手につかず、下校チャイムが鳴ってすぐ僕は学校を飛び出した。家に帰るとお母さんはとてもきれいな姿で窓の側で黙って本を読んでいた。だから僕は画面の映像を力いっぱいお母さんに見せたんだ。お母さんのあの顔が、声が、姿がほしくて。そしたらお母さんは目を見開いて叫びだした。やっぱりお母さんの声はいい声だ。胸の奥までお母さんの声が染み渡っていく。そのまま映像を見せ続けていると、お母さんは怯えた表情で僕の顔を覗いてくる。
ああ、なんて--

ぼくのお母さんは、かわいいんだろう。

お母さんが壊れてしまったあの日から、お母さんは僕だけのものだ。この綺麗に揃った眉も、芸術的な二重も、しなやかで品のある手首も、僕を包んでいたお腹も、その頭のてっぺんから爪の先まで僕のものだ。
これからも僕はこの素敵な、素敵なお母さんと一緒に過ごしていくんだよ。素敵だと思わない?


以下、二章以降のリンクです。
二章

三章

四章

#創作大賞2024 #ホラー小説部門

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