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運命サイコウ。舞台に学ぶ理想の物語
はじめまして。物語作家(志望)の【白庭ヨウ】です。(しらにわよう、と読みます)只今カッコを取り外す修行中です。アルバイトをしながら、主に小説を読み、小説を書いています。
1.素敵な舞台に触れて
さて、初投稿となる今回は、自己紹介として、数日前に観劇した『クロスシアター by 演劇ごはん®』を話題に上げたいと思います。この舞台、「演劇と食」という一見無関係な媒体をミックスする試みが高い質で実現されている新しいエンターテイメントでした。厳選食材をそのまま活かした料理と間に挟まれる演技とで、まさに五感で楽しむことができました。当日のメニューはこんな感じ。
しかし、この舞台の制作に私は一切関係しておりません。役を演じたわけではありませんし、いくつかあるという脚本の一つも知らずにのこのこ会場へやってきて度肝を抜かれた観客の一人に過ぎません。この状況もまた「演劇と食」のように、私の自己紹介とは関係が希薄に見えるでしょう。
では、私がなぜ今回の観劇を、『演劇ごはん』を取り上げたのか疑問に思われますよね?
それは、この舞台の特殊な構成のためです。演技と料理提供のサンドイッチ方式は斬新な構成だと素人目に思うのですが、私が最も興味を惹かれたのは【観客が物語の方向を考え、選択する】という点でした。そしてこれは私の物語創造における信念と少なからず重なる考え方なのです。
2.もう一つのテーマ「運命と選択」
この舞台を大まかに説明してしまえば、人生の岐路に立ったある女優の卵とある恋する女性の二人が行う選択を本人に変わって観客達が行うことによって進んでいく物語といえます。
会場である「CROSS TOKYO」に存在する設定の亡霊(?)で「人生は選択の集積である」と考えるCROSS MAN、「人生は運命で決まっている」と考えるCROSS WOMANの二人が観客の選択を彼女たちに反映させる役目を担っています。(選択と言っても二択式ではなく、具体的な行動を求められるので役者さんは大筋を踏まえながら即興劇をします。プロの技!)
ここで舞台のもう一つのテーマが浮かび上がってきます。【運命と選択】です。【果たして人生は運命で定まっているのか否か】、どなたでも考えた経験のあることではないでしょうか。受験での失敗、愛するあの人と出会えたこと、現在ついている職業、どうして昨日はラーメンではなくパスタを選んでしまったのか等々、自然と運命に思いを馳せてしまう機会は少なくありません。
2-1.辞書的意味での運命
運命そのものに向き合う前に、運命という言葉について広辞苑(1991)で確認すると
うん-めい【運命】人間の意志にかかわりなく、身の上にめぐって来る吉凶禍福。それをもたらす人間の力を超えた作用。人生は天の命(めい)によって支配されているという思想に基づく。めぐりあわせ。転じて、将来のなりゆき。
と、おおよそ一般的な見解で間違っていなさそうです。ちなみに運命という概念は少なくとも古代中国(殷・周)や古代ギリシア(ホメロス)で扱われているらしく、かなり歴史の長い人生観のようです。占いが運命の必然性に則ったものであると考えれば、有史以前の世界にも人々は運命を意識していたのかもしれません。ロマンがありますね。
2-2.科学的視点からとらえた運命
時代が進み科学が世の中の仕組みを解き明かしていくことになります。そこで科学者は運命そのものを観測することは出来ませんが、人間の【自由意志】の有無を考えることによって、つまりその行動は【選択できたのか】を確かめることで人間の力を超えた作用に迫ろうとしました。結果としては紆余曲折を経て【不可能ではない】というのが現在の(一般人がアクセス出来る情報レベルにおいてですが)一応の見解であるようです。
含みのある表現になったのは脳による無意識的決定が自動的に、つまり私たちの選択が差し挟まれる余地のないまま行動となる0.55秒後までに、ほんの【0.15秒】の間だけはその行動を【拒否する】ことが可能であるという、かなり限定的な内容に関してしか実験は根拠を示せなかったことを反映しています。(図示すると上のようになります)
とはいえこれで【自由意志】の存在、ひいては【運命】の不在を証明できたのではないか、と言いたいところですが、そうは問屋が卸しません。そもそも自由意志とは本人の決定にしか関与できず、私たちの外部にある環境はほとんどコントロール不可能な障壁として厳然と私たちの前に立ちはだかるからです。
では、私たちは粛々と、あの天の御座に胡座をかく運命に従うほかないのでしょうか?
3.CROSSする運命と選択
ここで舞台の話に戻りましょう。
劇中、運命論者のCROSS WOMANはどれほど観客が物語の筋を乱す方に選択を行っても役者たちによって筋書き通りへ修正されていく様子を示して「ほら、私の言った通りでしょう」と幾度も繰り返します。しかし彼女は、もし物語が筋書きから完全に逸脱しようとも同じセリフを繰り返したに違いありません。
逆にCROSS MANは観客の選択が登場人物の人生を変えたことを強調するけれども、それは一定範囲内の、予想の範疇での筋書きをなぞらえた、ほとんど確定的な道のりを登場人物に歩ませたという矛盾をはらんでいます。
私はこの限界にこそ、脚本家一宮さんの思いと【運命と選択】問題に取り組む手掛かりがあるように思われました。
それは運命と選択とは結合双生児、いいえ、もはや双子ですらなく一つの個体である、という認識です。
「彼/彼女」は仏像のような顔をしていて、ある時には慈愛に満ちているように見え、ある時には悲しみに暮れているように見えるのです。
この舞台では「演劇と食」「観客と役者」そして「運命と選択」とがCROSSし渾然一体と物語が立ち上がっているのでした。
観劇と食事を終え、家に帰るため夜行バスに乗り込んだ私は興奮冷めやらぬまま、夢見心地で物語の理想を繰り返し繰り返し再認識することになりました。
4.私の運命、物語の運命
一番初めにも書いたように、私は物語作家になるため修行中の身です。これが実現出来るか出来ないか、それはどうやら0.15秒の自由意志の積み重ねと運命(選択)に委ねるしかないようです。運命か選択か、解釈が私たちに任せられているのなら自分の都合に合わせて名付け前進していくしかないのでしょう。
私が目指す到達点は作中作の『Never Ending Story』です。一冊の本に封じ込められた物語が決して終りを迎えることなく何度も創り上げられるというファンタジー。それを実現してみたいと思うのです。そのヒントがこの舞台、「観客と役者で創造する」物語にありました。
物語の運命は作者と読者で創りたい、それが物語好きの物語作家【白庭ヨウ】の願望である、それを再び確認することが出来ました。自己紹介は以上です。
最後に、この文章を書く契機を下さった「演劇ごはん®」の関係者の皆様と一緒に舞台を楽しんだ観客の皆様に御礼を。ありがとうございました!
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