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あなたのことを理解できない世界で、短歌はにこにこしている

こんにちは、柴田といいます。このテキストを書いている時点で私は35歳です。不躾ですが、あなたは何歳でしょうか。

年上かもしれないし年下かもしれません。同い年だとちょっとうれしい気がします。同い年のスポーツ選手や芸能人は、それだけで少し応援したくなります。でも、同い年だからって分かりあえるわけではありません。

人はみんな違うし、理解することはできない。

歳を重ねるごとに、その思いが強くなります。

「できない」は一種の諦念です。少しでも理解できたらいいのに、たぶん少しも理解できないんです、私たち。情報を丁寧に共有することが限度かもしれません。けれども、伝達できる情報は限られています。時間も限られています。私たちは生きているから、物事は常に変化します。ねえ、誰に何を伝えたらいいんでしょう。そして結局、多くの人が口を噤んで生活しています。

短歌は、だいたい57577くらいの31音くらいで成立する詩です。単位は一首。短いから短詩とも呼ばれています。

語りつくせない情報を内面に持ち、語りつくせない情報のなかで生きている私たちが、その極めて短い「型」を用いて、正しい理解に近づくための充分な情報を伝達できるわけがありません。圧倒的な情報不足です。

だから短歌を読むときに、読者は自ら情報を補います。この短歌はどういう状況を示しているのか、どういう心情なのか。秀れた作者は言葉を研ぎすませて緻密な一首を成立させます。けれども、どんなに秀れた作者の短歌でも、その一首に入っている語の意味、音の響き、文字の並びなど、読者は読者の知識や経験や感覚や人生を動員して読解するでしょう。そしてその一首が、心に響いたり、響かなかったりします。勝手に感動したり、憤慨したりします。短詩は余白を生かす文芸だと言われますが、余白はつまり情報の欠如とも言えそうです。情報を伝えきれず、お互いに理解しきれない世界において、それを前提にし、生かした文芸のひとつが短歌かもしれません。

情報を伝えきれないこと、理解しあえないことは、少なくとも短歌においては悲しいことではないようです。短歌は、理解できない私たちを肯定しているように思えます。情報を伝えきれない現実を肯定しているように思えます。私たちは、さほど寂しくはありません。

だから、私は短歌が好きです。


◇日が昇りシャッター街は輝いてもうわたしたち友だちじゃ無い/柴田葵

#短歌 #俳句 #小説 #好き #きみは短歌だった



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