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コロナ禍に台湾移住をした時のこと(2020年)

コロナ禍で台湾は、世界の中でも厳しい政策をしていた方だと思う。でもその分、本当に大変な時期は短く、それ以外は外出も安心して出来る時期がとても長かった。

今では信じられないけれど、あの時は台湾に入るにはワーキングホリデービザも、学生ビザも許可が下りず、私に残された台湾へ行く方法は仕事で労働許可を得て、ビザの申請をすることだった。
運よく教育系の仕事を見つけ、半年程時間はかかったものの台湾へ。
私の住んでいた地域から台湾への直行便は勿論全便が目途の立たない欠便。
ということで、成田空港へ移動し、そこからほぼ人が乗っていないチャイナエアラインに乗り込み、桃園空港へ降り立った。

その時は空港に着くとまず、PCR検査で並び、そして空港からはタクシーを使って移動。多くの人はそこから隔離用のホテルへと移動し、2週間滞在。
私の場合は、後の旦那となるパートナーと住む予定の家にて、私1人での生活が可能だったので、台北のそのアパートへ。万が一、同居者がいる場合は、トイレや洗面所などが別である場合は問題なかった模様。

こうして、2週間の隔離生活がスタート。ホテルではない分、キッチンもあるし、ベランダもあるし、2週間有意義に過ごそう!なんて思っていたけれど、これがどんどんしんどくなっていく・・・。

その時はまだ、基本の電化製品やベッド等と家具を最低限しか揃えていておらず、なんだか落ち着かない。アパートの床が白いタイルに壁も白ということで、なんだか隔離感がより一層増す。家事も私一人&外出できないのでやることがあまりなく、スマホ、ノートパソコン、kindleで読書を繰り返すも飽きる・・・。

食べ物は私が行く前に色々と買っておいてくれたので、少し料理はできた。
必要が有れば追加で買ってきてくれたり、お弁当を届けてくれたりもした。

そして毎日かかってくる警察からの電話。体調の確認、そして時々どこで隔離しているのか、アパートであればオーナー(貸している人)は誰で許可は得てるか等の質問がされる。台湾華語(中国語)がわからなかったけれど、意外にもなのか、外国人担当の人なのか、英語だけでなく簡単な日本を話してくれる人もいて、なんだか義務とはいえ、一日の中で人とのコミュニケーション時間となった。

2週間が経ち、太陽の元に出た時は外に出られることにこんなにも喜びがあるのかと痛感。この2週間の隔離のお陰で、後にコロナ感染時に1週間の隔離や在宅勤務が2,3週間続いても、あの時に比べると家は整っていて何でもできるし、一人でずっと過ごす必要がなく旦那といることが出来たので、万事OKだった。

今思い出すと、コロナに対する政策を行っている時は不思議な時期だった。マスク着用は絶対、各店に入る時は必ずQRコードを読み取り、行動チェックがされ、コロナの陽性がわかると隔離。人数が多くなってくると、学校はお休みになったりもしていた。日本へ一時帰国が出来たのも、移住から約2年後。

ありきたりだけれど、あの不思議な日々があったから、日本に帰国して家族や友人に会える喜びも、当たり前のような日々の生活が行えていることも、本当に有難いことなんだと、たまにふと思う。

世界の日々が大きく変わってしまったあの時間。
もう私が忘れ始めているから、ここにに少し書いておく。

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