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「Trinité」に込めた意味、大切にしたい想い 《後編》

これからの活動、発信、すべての根幹にある想い その2

前回の記事を読んだ方からたくさんメッセージをいただき、
中には途中で涙を流してくれたという方も何人かいてくれて・・・
 
勇気を出して自分の人生の大事な部分をオープンにして本当に良かったと感じた。
 
今回は、《前編》に綴った大きな流れを経て
日々わたしがどんな心持ちで
自分自身やクライアントさんに接しているかについて綴っていきたい。
 
まだの方はぜひ前編から読んでいただけるとめっちゃ喜びます。




「一燈照隅、万燈照国」を体現する


「一燈照隅、万燈照国」(いっとうしょうぐう、ばんとうしょうこく)は
比叡山延暦寺を開いた伝教大師、最澄が唐から持ち帰った言葉で、
 
“一人ひとりが自分の身近の一隅を照らす。
それだけでは小さい明かりかもしれないが、
その一隅を照らす人が増えていき、
万の明かりとなれば、国全体を照らすこととなる。“
 
というメッセージ。
 
これはもう、
わたしの座右の銘、生きる目標、指針、
言葉は何でも良いけれど
「カラダ・ココロ・タマシイ」と並んで、とにかく「わたしの中心」といえるもの。
 
この言葉と出会ったのは、4年間通った経営大学院時代。
そこでは、経営にまつわる原理原則:
ヒト(組織開発・人財育成)、・モノ(マーケティング・ブランディング)・カネ(財務会計)のほか、
「自分は何のために生きるのか」を掘り下げ明確化する「志の醸成」をとても大切にしていた。
 
授業の具体的な内容は覚えていない(おいw)。
でもこれまた直感的に、とても惹かれた。
この言葉を聞き意味を知った時の衝撃は忘れない。
以来、いつでもどんな時もわたしの心の中にある想い。
 

わたしにもあなたにも、誰一人例外なく、
持って生まれた「光」がある。
地球という惑星で、人間という存在で生きることを選び、
日々一生懸命、社会でがんばっているうちに
わたしたちはその「光」の記憶を忘れてしまう。
 
けれど「光」は決してなくならない。
わたしたちの意識の引出しの奥深くに、どんな時もしっかりと、ある。
 
わたしは、Triniteは、
一人ひとりの中に必ずある「光」を一緒に思いだし
大切にていねいに磨きながら
一人ひとりがありのまま光り輝くお手伝いをしていきたい。
 
そう「志」を明確にしてからなのか、
わたしはすべての人を「光」として見、感じるようになった。
正確には「その人の内にある光」を見ている感覚で、
それがつまり「タマシイ」なのかもしれない。
 
トリートメントでも、セッションでも、日々の生活でもおなじ。
「外ではなく内」、または「内からにじみ出る外」を見て、感じているような。
それはまったく意識せず、自動的にそうなってしまっていて、
その視点に立つとすべての人が愛おしく、
「生まれてきてくれてありがとう」という気持ちが溢れてくる。
 
「光」として感じていると、
ご本人がどんなに悩み、モヤモヤしていたとしても
「ぜんぶだいじょうぶ」「すべて順調」だということがわかる。
「光」があることを知っているから、
だからいまは安心して悩んでいいよ、とも思える。
 
自分の「光」を思い出し、日々丁寧に磨き輝くこと。
そして自分から溢れる光で身近な人を満たすこと。
出会う先々で「光」の数をふやし、
さらに一人ひとりの「光」が輝きを増していけば
コミュニティ、国、世界がより明るく美しくなるはず。
 
そう心から信じている。
 
そのすべてのはじまりのために、
まずは自分を満たすことが何よりも大切。
 

自分を「一番身近な他者」として大切に扱う


《前編》で綴った娘の入院・手術を機に、
無我夢中で走ってきた会社員生活を一旦お休みしていた頃。
 
今思い返しても不思議だけれど、
なぜかその期間は「セルフケア」「自分を愛すること」をじっくり学び
日々の生活で実践するステージとなった。
 
カラダのケアだけでなく、ココロとも深くまっすぐ向き合い、
長年の思い込みや習慣でこんがらがった糸をゆっくり丁寧に解きほぐすような時期だった。
 
その時々のわたしに必要なテーマを教えてくれる先生とごく自然なご縁で出会い、
学びを終えたらまた次の学びと出会いがやってくることの連続で、
まるでわたしを良く知る誰かが最適な先生とタイミングを取り計らってくれているような。
 
社会人になるまではごく自然にできていた「自分のココロの声を聴く」ことを
実感をもって思い出すことができたのはこのころ。
同時にどれだけわたしは日々に忙殺され、外から求められることにばかり応え、
わたしを無視して、いるのにいないことにして、
わたしが教えてくれていたサインに気がつけなかったのかを痛感した。
そのころ出会ったのが「自分を『一番身近な他者』として扱う」という視点だった。
 
自分の親や子ども、パートナー、大切な友人になら
優しい言葉をかけたり、思いやったりを当たり前にできるのに
自身に対して「頑張らないと価値がない」「結果を出さないと認められない」と
誰よりも厳しかったのはなぜだろう、と立ち止まり、
「これからもわたしはわたしにそう接していきたいだろうか」と問い続け、
「もうやめにしよう」と誓った。
 
文字にするとあっさり書けてしまうけれど、
自分自身に厳しくなった背景には
これまでの人生で経験してきたトラウマを掘り起こすようなことも避けて通ることができず、
暗く苦しい深海のような世界を長く長く味わう時期だった。
 
それでも常にわたしを支え導いてくれる先生や仲間の存在に助けられ
復職するかどうかの決断をする時期がやってきた時、
「わたしのたいせつなわたしを、またあの環境に置くなんてできない」と心から思えたことで
大好きだった会社を、社会的に安定していた会社員という立場を
勇気を出して卒業することができた。
 
そこからは常に「一番身近な他者」であるわたしを
「気分はどうかな」「無理していないかな」と気遣い観察し、
できる限り心地良くさせてあげるわたしの視点で過ごしてきた。
 
「今日のランチは何を食べたらわたしは喜ぶかな」
「このお誘いは嬉しいけれど、わたしが無理することなくいられるかな」
「これからどんな人たちと過ごし、どんな世界をわたしに見せ、体験させてあげたいかな」
と一つひとつわたしに確認し、大切に選ぶことを積み重ねる。
そうすると自然に、身のまわりにはわたしが心地良く感じることしか存在しなくなる。
時に心地良くない状況があったとしても
「じゃあ、どうすればわたしは心地良くなれるかな」の視点に立ち戻り、選択・行動する。
 
わたしたちが「わたし」として認識しているこの「肉体」は、
姿形を持たない「タマシイ」が地球で成熟していくための「乗り物」「器」であり、
「タマシイ」の声を現実世界で形にしていくのは「肉体」にしかできないこと。
 
つまり、毎日毎瞬が「タマシイ」と「カラダ」の協働作業なのだ。
そして「ココロ」が、「タマシイ」と「カラダ」をつなぐアンテナとして存在している。
「ココロ」が喜んでいるかどうか、ワクワクしているかどうか、心地よいかどうか、
その感覚を何よりも信頼し、日々過ごすことができたら。
 
Triniteと出会ってくれたすべての人と
そんな毎日毎瞬を一緒に積み重ねていきたいと、
心から感じている。


最後までお読みいただきありがとうございました!


ということで、
「Trinité」に込めた意味、大切にしたい想い というテーマで
わたしのこれまでの歩み・学び、まっすぐ正直な気持ちを綴りました。
(後編はもっとサクッと書くつもりでしたが・・・)

これまで自分の内側をオープンにすることにとても恐れと不安があり
あの手この手で抵抗してきましたが、
こういうときも例にもれず
「わたしはどうするのが心地良い?」とわたしに聴いて、
勇気を出して想いを表現することができました。

わたしの「タマシイ」がとっても喜んでおります。

こういうときは、内側の軽さ・すがすがしさと同時に、
シンクロニシティという形で外側からも本当にわかりやすく
さまざまな応援、拍手、「Go! Go!」のサインが届きます。

これについてもまた改めて、綴っていきたいと思います^^

今回も、最後までお読みいただきほんとうにありがとうございました♡

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