こんな時だからこそ桜を見よう

私のような生き方をしていると、結果より過程が大事であるというのはむしろよく言われることのように思える。しかしもちろんこれは本来は結果が尊重される世の中、おそらくは資本主義という社会システムの中での、行き過ぎた合理性に対して逆説的に言われていることであろう。とにかく昨今ではビジネスマンの哲学が幅を利かせているようである。一分一秒も無駄にせずお金を稼ごうという姿勢は、例えば経営者であれば当たり前のことなのだろう。そうでなくても最近は気の合わない上司との飲み会の誘いは断るべきであり、友人だろうが急な電話には出るべきではないそうだ。経済活動に直結しない行動は時間の無駄とみなされるからだ。これは昔からかもしれないが、とにかくこの社会では、基本的にお金にならない行動は単なる趣味とみなされるのだ。そこには生産性すらもあまり関係がない。例えば人よりもとても速くボールを投げられるというだけでも、年に何億も稼ぐことは可能だからだ。もちろんそれは観衆をエキサイトさせたり、喜ばせたりという意味で素晴らしい能力であるし、大変な努力をしても得難いものであるが、それが社会貢献になる何かを直接生み出すわけではないだろう。だがゴッホの絵が存命中に一枚も売れなかったからといって、それが単なる趣味だったと本当に言えるのだろうか?

社会成長とともにテクノロジーはどんどん進化し、AI社会である。生活は便利に なったようだが、労働のほうはどうだろう?ロボットが自分の代わりに大変な労働や危険な仕事を担ってくれるはずではなかったか?しかしまだまだ大衆は労働が好きなようである。特に日本社会では、未だに多くの人々が週に5日も会社に行くのが当然のように、何十年も働きつづけいる。

AIは当たり前のように人と人との間に入り込んでいて、もはや気がつかないレべルだ。車を運転していれば、助手席に座っているパートナーに道を訊くよりアプリのマップのほうが確実だし早い。それを当然のように感じている時点で時代はとっくに変わっている。時代が変わるというのは、人々の意識が変わるということだからだ。スマートフォンを片手に持って生まれてきたような世代は、新しい価値観と生活様式をすでに手にしている。今はその分断があるだけだ。しかし合理性の裏には、淘汰されてしまった価値観が隠されていないだろうか?こういう時代だからこそむしろ、携帯を片手に最短距離を突き進むより、向こうの桜が綺麗だからと、回り道をする心の余裕が欲しいものである。お金を使うのと時間を使うのとどちらが真に贅沢な人生か?結果とは過程とは何かということと共に考えて生きたいものである。

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