ユースワークの「共通性と多様性」とは?|ユースワークキャンプ2023 オープニングセッション④:クロストーク
山本晃史:
この時間、皆さんからもDiscordにもいろいろ書き込んでくださってありがとうございます。皆さんから出ているこのあたりの言葉をもうちょっと解像度を上げて、何か共通認識を作っていきたい感覚も出てきていると感じています。
「多様性・共通性」の「多様性」とは?
山本 晃史:
最初にちょっと気になってきた話題としてはですね、「共通性と多様性」というときの「多様性」という言葉の捉え方も、意外と皆さん異なっているのかなと。あるいは喋ってはないけど、難しいのかなっていうのは思ってまして。何かDiscordでですね、「多様性」と「何でもあり」の違いって何だろう、みたいな話もあがっています。ちょっと近いけど、多分違うんだろうなっていう気がしたんです。そもそも今回のテーマで「多様性・共通性」の「多様性」ってどういうものを指してるのかなみたいなことをちょっと喋れたらと思います。
津富 宏:
ちょっと両角も補足してくれた方がいいと思うんですけど、おそらくヨーロッパの文脈で多様性って言い出したのは、やっぱEUとか例えばCoucil of Europe (欧州評議会)に関してヨーロッパの文脈の中で、ヨーロッパ的共通価値みたいなものをやらざるを得なくなったときに、いろんな国がどうしても入ってくると、本当にバラバラな国を束ねなきゃいけないので、ひとまず多様性って言わざるを得ない状況があると思うんですよね。そうやって、でも横並びではないんだけれども、ある意味横並びで全体でレベルアップしていくっていう欧州の若者政策の展開の中で、多様性っていうものが許容されざるを得なかった。
でも、かといって、これはもう当然のことですけど、ユースワークとは何かっていうことについての議論を深めないでやっていっても分野として崩れてしまうので、その議論の場を設けるために、ユースワーク大会をやるというのが、ヨーロッパの流れだと思うんです。両角くんの今日の言い方だと、それとパラレルのような形で今日があるっていうのは、やっぱり様々な現場実践があるっていう意味で多様であるという事実であるけれども、ユースワークは何でもありって言うかそんなことはなくて、何年前の答えが今唯一の正解としてあるわけじゃないんだけども、やはり、ユースワークとは何なんだろうかっていう議論を、継続的に、研究者を交えてやっているわけです。ヨーロッパでも、研究者は、ユースワークは多様ですと言って終わりにしているわけではなく、研究者を交えて、実践者の中でも議論しているんだと思います。
だから、実践共同体という言葉が、さっき出てきましたがコミュニティ・オブ・プラクティスっていうのは、別にユースワークの分野だけではなくて、ヨーロッパでは、様々な分野で使われている言葉ですが、コミュニティ・オブ・プラクティスというのは、各国での実践がありながら、欧州全体ではひとつのコミュニティとして高めあっていこうという考えだと思います。その中ではさまざまな学びとか議論とか、あるいはお互いの相互交流とかありながらですけれども、それを通じて、答えかどうかわかんないけど、共通なものを探求していくプロセスだと思います。今日、僕が問題提起したように、時代が変わると、何が求められていくかが変わっていくし、同じようなことをやっていても、求められなくなっていったりする。
これは今日ちょっとご紹介した『コミュニティ・オーガナイジング』も全く一緒で、当初は資源調達型っていうか、それなりに豊かな時代でしたから、政府に要求して資源調達するという形のコミュニティ・オーガナイジングが多かったんですが、今、日本でも起きているように、だんだん政府が弱まってくると、協力関係をどうつくるかとか、そういった方向に、変わってきているわけです。対抗型のコミュニティ・オーガナイジングをやっていると、対立関係/権力関係が永遠に再生産されてしまうからです。そういった議論が、コミュニティ・オーガナイジングについても行われているんです。おそらく同じようなことがユースワークでも起きているのではないか、いや、起きないと、このポスト工業化社会には、ユースワークは、おそらく適用できないと思っています。いかがですか?フォローしてください。
両角 達平:
すごいこんなのでフォローってすごいマジかって感じだけど、すごい話が始まりましたね。ヨーロッパの話でいうとずっと戦争してきたし、ずっと差別の歴史だったわけじゃないですか。これ以上もう戦争やめよっかっていって、欧州評議会ができたりEUができたりっていうふうになっていった。あと世界大戦もそうですし、その前の30年戦争とかもずっとそうですけども、もう宗教対立もやめようよっていうのを何回も何回もやってきたっていう歴史っていうものが、「多様性」に表れてるのかなっていうふうに思っています。ヨーロッパ全体でやってきたのは、この「我々は誰なんだ」っていう境界線を常に変えていくっていうことです。昔は貴族だけ、それが庶民も入った、人権概念できた。だけどそこにまだ女性が入ってなかったとか、人種差別(の禁止)が入った、みたいなこともあっていて、それをどんどん拡大していく試みだったのかなっていうふうに思ってます。だからこそあらゆる人が参画できるようにしていくっていうようなチャンネルを作っていくっていうこと。そうしないとまた差別が起きるし、戦争が起きるし。今、ソーシャルメディアとかでもいろいろ起きてることとかって、本当にやっぱ我々って境界線というものをすごく狭くしてるからこそ、あの人たちは敵だっていうふうにしていって、言い合いが始まるわけですよね。っていうようにしていかないっていうことが、民主主義であり、我々っていう境界線を変えていく意味での「多様性」ってことなのかなっていうことをちょっと考えました。
青山 鉄兵:
多様性を何でもありって言っちゃうのは簡単なんですけど、やっぱ三つくらいのレベルで多様性の中身を考えておく必要があると思っていて、まず一つに、1人1人のユースの持ってるニーズや課題は多様だってことですよね。だから、若者ファーストにしていく上で、実践側も、まず多様じゃなきゃならないっていう要素は必ずあるはずで、これは何でもいいということとはちょっと意味が違うような気がします。若者のニーズを単独の実践で満たすことはできないから、若者ファーストで考えたときには彼らのニーズの多様性というものを踏まえる必要があるからこそ、我々も多様じゃなきゃいけないっていうのが一つ目です。
二つ目に、もともとは「ご近所」の領域なのに、近年では別領域としてつながれていないっていう経緯もやっぱりもったいないと思うんです。だから誰でもいいというよりは、現実レベルでお話して意味がある範囲においては、いろんな人たちが似たようなことをしてるんだったら、まずは集まって繋がりを作っておきませんかっていうイメージです。話の最大公約数をどこまで担保できるか、どこまでっていうのはあるけれども、誰でも来ていいよというのは戦略的な多様性を持ってることが業界を力づけていくっていうふうに思います。
三つ目はもうちょっと政治的な話で、業界形成をしていく際に、この業界に予算を取ってくるとか、この業界の利益を守れる政治家を議会に送り込むとか、そういったレベルで若者支援とかユースワークという領域にある程度の社会的な力をつけていく上では一定レベルで連帯していく必要があるということです。連帯のための多様性という点からも、多様であることの価値を捉えていく必要はあるのかなと。逃げ腰の多様性ではなく、積極的な意味で多様性を捉えていくことが重要じゃないかなと思っています。
山本 晃史:
今回のテーマを改めて考えたときに、多様性と共通性の中で現場っていう多様性とかニーズによる多様性はあるけども、そこで通じる共通点はなんだろうかってことを、皆さんもこの2日間を通して見つけていきたいなって感じが多分徐々に出てきてるんだというのを感じています。しかも、それが時代によってどんどん変わっていくだろう、だから我々として今何を確認したいのかみたいな議論とか、何を大切にしながら実践されてるのかなみたいなところから、何か架空の新しい言葉の獲得みたいなのができたりするんじゃないかなとか思っていました。
改めて「余暇」と「民主主義」とは?
山本 晃史:
そんな中で1個の核のテーマとして今回のテーマで出てきたのが、「民主主義」とか「余暇」っていう言葉だと思うんですけど、いうて僕も日本で育って、やっぱ日本にないな、馴染みがない言葉だなとやっぱ思うんですよね。なので何か改めて今回の場合一旦お聞きしたいのは、「余暇」と「民主主義」って、改めて何を指しているのかなとか、どんな言葉として使っているのかなってことを、ちょっとお聞きしたいなと思いました。
津富 宏:
Discordも追ってて、ちょっと同じことを思ったんですけど、余暇っていうのは「自由」なんですよね。しかし、残念なことに、自由じゃない時間や空間がどんどん増えすぎてる。さっきの埼玉県の留守番禁止条例の話もそうなんですけど、日本では、自由がどんどん保障されなくなっていると思います。例えば、労働時間を考えてもそうです。いい話じゃないんですが、象徴的な話なんでお話しますけど、ノルウェーで、爆破事件があってそのあと射殺があってたくさんの方が亡くなったという事件をご存知の方もいると思うんですが、あのとき爆弾が仕掛けられたのが3時半です。東京でいうと霞が関みたいなところですよ。でも3時にはほとんど全員が退庁していたので、亡くなった人が少なかったんです。この事件で亡くなったのは、爆破のあと、銃の乱射で亡くなった、ユースキャンプをやってた若者たちなんですが、何を言いたいかっていうと、社会全体として自由を確保するっていう強い意志が必要で、それがないので子どもたちも忙しいし、大人たちも忙しいということです。
いろんなことを思う方がいると思いますが、余暇っていうのはなんか余っているというだけじゃないんです。もちろん働くのも権利ですが、働かない時間を確保する権利です。その自由を拡大していくこと、皆さんも今日、余暇を活用してここに来られていますけど、好きなことをする、好きなことを肯定できるのが一番幸せだと僕は思います。そういう意味で余暇活動の支援って言ってるのは権利保障なんです。これは両角さんも知っていますが、スウェーデンに行けば、スタディサークルっていう仕組みがあって、余暇がいっぱいあるから、みんなで集まってバンドやったり読書会やったり、特に長い冬を好きに過ごすわけです。その豊かな時間がいっぱいあるっていうことが僕は余暇活動の保障であり、余暇活動の支援だと思っています。短く言えば、余暇は自由だっていうだけなんですけど、以上です。
青山 鉄兵:
今、「余暇」っていうのは、余暇であることに意味があるんじゃなくて、むしろ自由であることに意味があるんだっていう話をしようと思っていたら、いきなり津富先生に言われてししまったんですが、私もそう思うんです。スウェーデンだと、フリータイムリーダー、Fritdsledare、ってユースワーカーの資格があるんですけど、日本では「余暇」って訳されちゃうんだけど、やはり名前の通りフリータイムであることにすごく意味があるんだと思っています。特に、今の日本の文脈では、自由であるためには、成果を求められないということがすごく重要なのかなと思うんです。
放課後子ども総合プランのような放課後支援施策も、一歩間違うと、放課後が7時間目、8時間目みたいになってるケースが山ほどあって、やっぱり余暇にすら生産性が求められるような状況の中で、ユースワークもそこに加担してしまう危険性はずっとあるわけで、改めて余暇というものの意味を問うていく必要があると思います。ただ、もう一方で、自由は格差を生みやすいものなので、そこにどれだけ社会として介入するべきかはまた別の話でもあります。ただ自由だけがいいって言って放任してしまうと、与えられる余暇の中に格差が生じやすかったり権力性を生じやすかったりするので、余暇に優劣がつくようなレベルでの自由を求めているわけでもないところのバランスも必要だと思っています。
両角 達平:
民主主義の方の話をすると、なんか民主主義っていうと多分「ん?」ってなって、何とか主義、平等主義、共産主義、自由主義、そういう感じかなとなって入ってきにくいと思ってます。実は民主主義って誤訳なんですよ、本当は民主制っていうんですね。Democracyじゃないすか。デモクラティズム(Democratism)だったら「民主主義」かもしれないけどデモクラシーって向こうで言われてる。ってなると、民主主義は何かっていうと、一つのスタイルなんだというふうに、宇野重規さんが言ってます。本当にそうだなっていうふうに思って、日本で民主主義、自由主義とか言うと何とか主義だよねってなっちゃうんだけども、そうじゃなくて一つのスタイルだと思ってます。そのスタイルっていうのは僕はすごくユースワーク的だと思ってる。つまり、個人を対等に扱うし、対等に接するし、権力関係とかすごく嫌う。我々ねこうやって大学の先生がこの壇上に立って、やばくないすかこれめちゃくちゃ権威的ですよね。こういうのにすごく嫌だっていうふうに思うのはとてもユースワーク的だなと思いますし、気をつけてることですしね。ですので、スタイルとしての民主主義が日本になかったかっていうとそんなことはないと思うんですよ。むしろ皆さん、ここに来ている皆さんの現場ではy当然のようにありますよね。
それに、それが心地いいなと思うからユースワークの皆さんの活動のとこに人が来るし、僕らもこのコミュニティがいいなっていうふうに思うわけです。そういう理解をするとスッと入ってくるのかなと思ってます。民主主義っていうと何か一般意志とか、自由の相互承認とかね、そういうレベルの抽象的なマクロのレベルとか、政治レベルの話のものも入ってきちゃうんですけど、スタイルとしての民主主義って理解すると、我々日々やっていることなのかなと思ったりします。その辺の話はぜひ皆さん、実践事例のとこで話を聞かせてもらいたいなと思ってます。
津富 宏:
民主主義とは、僕が思ったさっき話した余暇の話とも繋がるんですが、僕は「自治」だと思っています。余暇の時間というか自由な時間を自分たちで好きなようにしたい、でもひとりでは、好きなように過ごせる環境はつくれないですよね。だから、みんなでまとまるわけです。これはコミュニティ・オーガナイジングになります。けれど、コミュニティ・オーガナイジングは、当事者だけじゃなかなかできません。さっき青山さんが言われたみたいに、余暇や自由から排除されがちな人には、何らかの応援(エンパワメント)が必要です。だから、余暇を権利保障するためには、ユースワーカーがいて、自治空間を守る、あるいは、自治空間を育てる、自治空間に参加している人たちをエンパワーする。僕は、まさにこれが民主主義的なプロセスだと思っています。その中で、ただ支援されるのではなくて、この自治空間を自分たちが作り上げてきたんだ、育てたんだっていう誇りとか経験を積んでいくというのが、ユースワーカーと共にある若者たちがする経験なんだと思うんです。
スウェーデンだと、ユースワークの分野でよく語られるストーリーっていうのは、ここの地域の若者たちがユースセンターが欲しいっていって作ったんだよとか、この地域はちょっとお金がなくなってきたからユースセンターが潰されそうになったけど、みんなで議員さんのところに言って残ったんだよといったストーリーです。若者のパワーを感じるストーリーです。これらは、ひとりでやったというストーリーではないですし、あるいは、議員さんが言ったから残ったというストーリーでもないです。そういうのではなくて、みんなで達成する。それを、ユースワーカーが民主主義的な体験として応援するんだと思います。
話が戻るんですけど、僕は学生さんをいっぱい応援させていただいてきましたが、学生サークルは、一つ一つの自治空間であって、本当にみんなでよく話し合うんです。普通の職場よりも、よほどフラットに時間をかけて話し合う空間がそこにあるんです。そうした原体験が、僕はすごく大事だなと思って、いろいろと学生を応援させていただいてきました。それも一緒だなってっていう話しです。
ユースワーカーの専門性とは?
山本 晃史:
もう一つユースワークっていうものをどうとらえるかって話をしていく中で、ユースワークという言葉も多分、最近出てきたと思っています。その中でやっぱ核となるものだったりとか、ユースワーカーと呼ばれる人たちの専門性、独自の「専門性」ってどういうことだったり、どういうスキルなのかお聞きしたいです。
青山 鉄兵:
専門性にもいろんな専門性があると思うんですけど、特にユニバーサルな活動の中での専門性については、ユースワーカーの専門性は、カウンセリングのような一対一で発揮される専門性よりも、場や環境に働きかけていくような専門性の方が重視されてきた歴史があると思います。もちろんベースとなるユースに対する理解や、スウェーデンのユースワークの養成講座がデモクラシーの話から始まるのがすごいと思っているんですけど、そういう理念みたいなものも専門性に含まれるとは思います。ただ、もう少し技術的な観点で専門性についていえば、個に対する支援というよりは場や環境に対する支援を通じていろんなプロセスを生じさせていくとか、それに伴走していくようなところが、専門性の中心になってきたんだろうと思っています。そうしたプロセスの中には、一対一で対応する場面もあるだろうとは思いますが。
追加して二つ言っておきたいことがあって、1つはユースワーカーの仕事のことをユースワークと呼ぶのではないということです。ユースワーク的なプロセスがあり、そこに関わる人たちをユースワーカーと呼ぶはずで、ユースワーカーがやることがユースワークなんだという理解の仕方ではない方がいいだろうと思っています。
もう1つは、ボランティアのリーダー/ワーカーが関わることが大事にされてきたこともとても重要だということです。もちろんプロフェッショナリズムはすごく重要だし、職業的な価値をあげることとか、ユースワークでご飯食べていける人を増やすとかっていうこともすごく大事なことである一方で、そこに自分自身もユースであるようなボランティアがたくさん関わって、ナナメの関係だとか、成長の循環を生み出してきたこと、ユースワークにプロじゃない人たちがたくさん混ざってワークを一緒にやってきたってことはすごく重要な歴史だと思っています。
津富 宏:
ちょっと重なりつつ違うような、言葉遣いが違うかもしれませんけど、僕の中では、ユースワーカーがやることがユースワークであるというのがしっくりくるんです。それはなぜかって言うと、人がいないところにはユースワークがない、ユースセンターだけあっても全然駄目だっていうことです。ユースワーカーって何かっていうときに、僕は、それが専門家であるかとか、ボランティアであるかってことは気にしてなくて、ユースワークの専門性が身体化された存在がユースワーカーだと思っています。
今年、フィンランドからデジタルユースワークをやってる方が来られて、静岡県立大で話していただいたときに、オンラインゲームの世界に入って戦いながらユースワークするんだけど、ゲームが強くないと信頼されないと言っていました。そこで、質問が出たわけですね。これは、ゲーマーの人が、ユースワークに関心を持ったらできる活動ですか?という質問が。そうしたら、彼は明瞭に否定したんです。「ユースワーカーでなければこれはできない」と。ユースワーカーがゲームに強くなるんだと言われていました。すごく、非常に明瞭に答えられたので感心もしたし尊敬しました。
こういう存在や人がいなきゃ駄目だと思うし、僕がヨーテボリで思ったことはそういうことなんです。だから、ユースワークの中身は何かっていうと、自分自身が民主主義の担い手として、若者の余暇という権利、活動というものを保障するんだって強い気持ちをもち、余暇を一人で遊ぶものとせずに、人々の関係性を作っていくこともそうだし、あり合わせのものであってもいいから、あり合わせのもので楽しめるものを作っていくこともそうなんだと思います。
一番大事なのは、そのプロセスを楽しいって思う気持ちなんだと思うんです。民主主義も楽しいし、子どもたちは一緒に遊びながら育つし。そういう環境を用意しようとする大人がいる社会は良い社会だって思ってもらえるし。私は、人は遊ぶことを通じて成長するんだと思うんです。もっとも、日本では「成長」という言葉は、そういう意味で理解されていないんで、ユースワークや教育につまらないアカウンタビリティを求めたりすると思うんです。
最後にこれはちょっと関係ないんですけど、僕が尊敬している、静岡県の小学校の校長先生だった人がいて、校庭の周りを回ると、子どもたちがダンゴ虫とかいないかなとかいって掘り返した跡とかいっぱいあるのがいい小学校で、それがなくなってしまったって話をしていました。それはなぜかというと、プログラムが増えて子どもが忙しくなって遊ばなくなったからだというものです。「ダンゴムシいないかな」から始まる余暇をいっぱい保障するっていう専門性が、僕はユースワークだと思います。
両角達平
ユースワークにとっての「専門性」っていうものの限界を理解しているっていうことも、もう一つ専門性として重要な視点かなと思っています。というのもヨーロッパの欧州ユースワーク大会でも第2回大会のときにその辺のことって議論になったんですね。ユースワークっていうものを提供するためには、いい実践っていうものが作られないといけない。そのためにはやはり専門職として確立しないといけないとなっていったんですよ。けど、そうするとその専門職集団の人たちだけがユースワークできる人みたいになっちゃうし、ユースワークの教育課程をちゃんと経た人だけがユースワークになれるという認識が広がってしまう。ただそういうふうになった先のユースワークの世界観ってどうなんだいっていうのは、一方でそのときも指摘されてるわけですね。つまり専門職だけが関わるユースワークって違くないかということがヨーロッパでは議論されました。
それこそボランティアだったりとか、あるいはその辺の人、誰でもユースワーク的なマインドセットを持ってできるよねっていうことも確認されたっていう過程があるんですね。一方でユースワーク業界っていうものがまとまってないと、専門職、プロフェッショナルとしての認知が他の領域の人にされないという問題も生じる。実際に、専門性は存在するわけですしね。だからそういう発信をしないといけないんだ、という難しいかじ取りがユースワークには迫られている、ってことを知っておくことは大事かなと思ってます。
専門職化こそがゴールではない。けども専門的な技量だったりとか、アイディア、価値観というものを持っているっていうこと、それは両立可能なんだというか、うまくバランスを取っていくっていうことが大事なのかなっていう、こういう微妙なグレーゾーンにユースワークはその性質上あるんだっていうことを理解してることが大事かなと思いました。
山本 晃史:
なんか改めて専門性の話を感じながらでも、抽象度を上げていくとやっぱユースワークの核とは何か、それを体現することが、体験しようとしている姿勢とかスキルみたいなものが、ユースワーカーという人たちを表しているのかなと聞いてて思いました。ですので、この2日間を通して多様性もそうだし共通性って何だろうかなと、深められるといいなっていうのを改めてお話聞きながら思いました。