
#フルーツの連想 "MindFulness"11月12日(火)no.32
「ちょっと外行ってくるね」
「うん?」
……………
「ちょっと外っ」
直ぐにでも
何処に?
という返事が飛んできそうなのを見計らい
それが嫌なのかちょっとだけという
曖昧なやりとりをする
この年齢にもなって逐一行くところを
正確に伝えるものなのか?
という堂々巡りを繰り広げている中
これも習慣なんじゃないのかなぁ??
という謎の正当性を図る
「出掛けてくるね」
でいいんじゃなかろうか?
毎日大体息子はここに出掛けてるのだろう
という暗黙の了解は
帰ってからの話題を家族にも提供するに尽きる
別にも悪い事をしているわけ
じゃないのだろうけど
今日○○ちゃんと出掛けてくるんだぁ
なんて変にわざとらしいなんて遠の昔に知ってる
これも言葉にする事でもないのだろうけど
するのならこういう事なのかもしれない
大の大人がだ
日々当たり前の様に1日を繰り返すのだけど
同じ1日は2度と現れる事はない
そんなのは当たり前なのだけれど
日々前向きに生きようとする中で
どうしても停滞はある様な気はする
敢えて停滞という
言葉をオレはチョイスをしている
休憩にあたって
疲れが溜まっている時ほど
その疲れを黙認するのも個人の犠牲になるのだろう
あくまでも身体のメカニズムというのは
機能的には傾きやすい
疲れている感覚は
自分で見つけ出さなきゃならないのだとしたら
どうなのだろう
こいうときに郷に従ってるのであれば
何が欲しいかも曖昧になる気がする
栄養でさえも
今何を味わい
そして
欲しているのか?
その疑問を解決に向けるべきなんじゃなかろうか
当たり前に提供される食卓が
必ずしも満たされるわけではない気もするし
その客観視から観た己を己よりも
理解をしているのかもしれない
これはあくまでも独占主義だ

母親は最近まで
風呂にはいる時MDコンポを使用
あと
清潔にする=リセットする
自分目線からは用いられる習慣だ
そこで継続を切っておかないと
仕事と仕事外の展開点にはなりにくいだろう
中途半端が
何事も引き摺るような気がする
そんな事を考えていたら
1人の時間以外は自分の姿見のまま
今にの時間がないのかもしれないなどと
忙しなく観る人の様子で感じていたのかもしれない
昨晩はパイナップル🍍ジュースを
夕食後コンビニで買っていた