感情を味わう、きっとそれだけなんだ
人間は知覚の束である。
こんなことを昔の賢い人が言ったらしい。
帰納的に自分が出来上がっていくんだろうな。
はじめに"私"があって、その私が知覚をするのではなく、
一つ一つの知覚が始めにあって、それによって私が生まれる。
僕は結構しっくりくる。
量から質が生まれたり
経験をたくさんしてセンスが身についたりする感覚と一緒。
実験をたくさんして法則を導き出していくのも。
具体を繰り返すことで抽象が出来上がっていく。
「あー、この人怒ってる顔してるな」
こう思う人は、多分自分の中で「人が怒った表情」というのが抽象としてある。
それが出来上がっている状態だから、
ある表情を見た時に、これは怒っていると分かる。
すでに数学の公式を知っているみたいな状態。
イデアとかとも広い意味では同じなのかもな。
けどこれって最初からこうだったのかな?
本当に小さい頃から怒った表情がわかっていたのかな?
動物的なところでは多少あるかもしれないけど、
これも元は具体のところなんだと思う。
一つ一つ、"これは怒った顔ね"っていう経験を繰り返しているうちに、
少しずつ自分の中に怒った顔という抽象が出来上がる。
そうなったら抽象から具体に落とせるようになる。
まあさっきの人間は知覚の束であるってのも、
人間をどう定義するか、私とは何かっていう認識がちゃんと発言者とあっていないと、本人の意図は完全には掴めないんだろうな。
で、自分の感覚として私感のある自分で言うと、
それは感情で出来上がっているような気がするんだ。
感情の束が、感情の積分が、
僕らしさのある僕になっていく。
人生って感情の連なりでしかないのかもしれない。
手触り感のある"僕"にとっては。
一般的、客観的には人生はもっと他の定義がしっくりくるけど、
僕視点での僕にとっての人生は感情の波以外の何物でもない。
友達と遊ぶことも、何か練習をすることも、
それら自体は勝手にやっているようなもん。
自分が選んでやっているってよりはなるようになっている。
そんな止まることなく揺らぎ続けている毎日の中で、
僕はいろんなことをする。
それを通じてどんな感情になるか、
それこそが人生なんじゃないかって思ったんだ。
感情っていいな。
嬉しいも楽しいも、悔しいも恥ずかしいも、
何もかもが好き。
感情は味。
いろんな種類があって欲しい。
それにしかない独特の良さがある、
たくさんあることで一つ一つの味も際立つ。
味がひとつじゃ飽きちゃうしつまらない。
いっぱいの感情を素直にそのまま噛み締めたい。
味わいたい。人生はそれでしかない。
せっかくなら苦いもまずいも全部
とびっきり味わいたい。
生きてるって感じがする。