教科教育の終着点とは
今日は久しぶりに教科教育について、考えさせられる日でした。学校では、同期の英語の先生と、そして家に帰ってきてからは大学時に所属した研究室の先生と話をしたからです。
同期の先生とは、授業作りの悩みについて話しました。教科の内容と付けさせてあげたい内容が合わない。それに、何か内容を1つに絞ったところで、それを全員が必要としているのかもわからないからどうしたらいいのかわからない、というものでした。
大学の先生とは、教育学とは違った視点で、国語を学ぶ意義を考えないといけないということ。古文の文法や漢文の訓点うちなどをどのように価値づけるのかが大事だという話をしてもらいました。
最近の僕のスタンスはこうです。
生徒が必要としているものは一人ひとり違うし、教科の学びをどのように価値づけるのかも一人ひとり違うのだから、こちらが〇〇だと定義するのは不可能。
だから、『学び合い』に落ち着いているわけなんですが、やっぱり教科教育について、国語ならなぜ国語を教えるのか。英語ならなぜ英語を教えるのかを突き詰めたくなるのはわかります。
教師になりたての時は、教科教育法の本を読みまくりました。授業もあらゆる工夫をして、子どもたちのためになるであろう授業をめっちゃ考えて作っていました。
年度ごとに、国語を学ぶ意義を生徒に語り直したりしました。最初のころは「自分の意見を根拠持って述べればよい」みたいなことを思っていたと思います。
でも、結局は子どもたち全員をやる気にさせることはできません。それに社会に目をやると、国語だけでなく、他のどの教科も特段いらないなと思うのです。
だから、教科教育をつき詰めることは今は辞めてます。