見出し画像

新しいことに挑戦できないのは、昨日の延長の自分を生きてしまうから

今回は、混じりっけなしの、ただの日記になってしまう気がします。。。

他の方の記事を見ていると、自分の仕事や生活に機能的なものとなる内容だったり、「ハッ」とさせられる内容だったり、心温まる物語だったりします。

どれも、大変ありがたい出会いだ、と思いながら読んでいます。


そんな中、100%の日記となる文章は、オンライン公開する意味があるのか?

なかなか悩ましい問いかけになるのですが、書いてみることにしました。


***

6月21日は、

夏至
新月
部分日食

というイベントごとが重なる日のようでした。(後から知った後付けの情報です・・・)


6月21日の日曜日の朝。

目が覚めた時に、とても不思議な感覚だったのです。


昨日のことがよく思い出せない。
なぜ、ここ(寝室)にいるのかわからない。

うまく表現できないのですけど、起きた瞬間に
「新しい時間が動き出す」
のを、はっきりと感じたのです。


すごく不思議な感覚でした。

昨日からの延長である感覚が全くない

そんな感覚になったのは初めてでした。


それが、部屋の風景を見ながら、ストレッチを始めたり、瞑想をしながら体の動きに注目をしていると「昨日とのつながり」を思い出し始めました。

決定的だったのは、「スマホでメール、SNS、メッセージアプリのチェック」をした後でした。

スマホのチェエクの後に、「完全に昨日の私と一致」した感覚になったのです。


私はスピリチュアル界隈の話は嫌いではないですが、手放しで信用していません。(エンタメとして見ています)

だから、後付け情報で得た「夏至、新月」などに関する情報を自分に当てはめようとは思いません。


しかし、体験として不思議な感覚を得ました。


これを考察するに、
「人は、基本的には思い出(記憶)の中で生きる」
のだろうなあ、ということです。

思い出の中で生きていないと、どうなるか?

それをその日の朝に経験したのです。

その経験では、多少の混乱がありました。

でも、その混乱の中、大変気分の良い朝でした。



朝、目覚めてすぐの、やや「まどろんだ状態」は昨日の延長ではない自分を経験しているのかもしれません。

それが、例えば
・部屋などの物理的情報
・メールなどの時間の継続を表す情報
・家族などの思い出を表す情報
などを手がかりに、「昨日までの自分」を思い出して、その延長の今日として生き始めるのでしょう。

私たちは、昨日までの手がかりなしで今日を生きていくこともできるのでしょうけど、どうしても「記憶や思い出」と遭遇する日々を過ごします。


その良し悪しを判断することはできません。自我が悪者ではありませんしね。


おそらく昨日からの延長を生きようとするのが、自我の望みなのかもしれません。

習慣に従った人生。。。
過去の繰り返し。。。

「私の知りうる範囲内の私を生きる」のが自我の望みと言えます。


新しい1日を、
新しい自分で、
どう過ごそうか

という思考は、自我から解放された思考と言えるかもしれません。


自分から主体的に生きる
常に新しいことを受け入れる

というのは、そんなに難しいことではない、と経験した目覚めでした。


巷では、
・部分日食
・夏至
・新月
といった、「パワー」「エネルギー」に関係した情報が出ていましたが、私がリアルに体験したのは、、、

『昨日までの自分と同じでなくてもいい』

というものでした。


過去のしがらみを気にせず、自由に生きていく決断を確かなものにできた経験でした。

人は毎朝、新しい自分になる。

私はそんなふうに感じます。


朝、目覚めてまどろんでいる時間を楽しめるように、余裕を持ったスケジューリングと、手の届くところにスマホを置かない、の2点を新しい習慣にします!!





いいなと思ったら応援しよう!

フクダヨウスケ
記事を読んでいただいて、共感していただけたらサポートをしてくださると嬉しいです。あなたからのサポートを、他の誰かに届けられるよう頑張ります。