思考と感覚の境界で

思考や意識は脳で生まれる。

感覚は体が刺激をキャッチして、脳に送られる。

複数の感覚を脳で統合して、リアクションとして運動が起こる。

統合されたものの一つが言葉だったり、音楽だったりするのだけど、それを他者に伝えるには運動が必要。

話すのも、書くのも、作るのも、手足を口を動かさないとできない。

脳は意識や思考で、体は運動や感覚。

サウナに入った後、半ば強制的に思考が止められて、感覚の世界にいるように感じるのは、体への刺激の入力が大きくはっきりしたものだからなのかもしれない。

「思考」を手放したければ、体への感覚への入力を大きくたくさんにすると良いのだな、と合点がいく。

体への感覚入力を増やす手段はサウナみたいなものでもいいだろうけど、入力を増やすために出力を増やすのもOKだと思う。

体で出力、つまり運動。

走る、歩く、そういうのはもちろんだし、絵を描く、歌を歌う、楽器を奏でる、そういうのも「あり」。

感覚の入力なので、音楽を聴く、絵を観る、スポーツを観る、話を聞く、そういうのも「あり」。

ポイントは量だと思う。

量が少なすぎれば、「思考」が働く。脳が出てくる。そうなると思考の世界。

だから「没頭する」ことの大事さが言われているのだと思う。

「没頭する」のは、大量の感覚入力を行うことなのだろう。

難しいことを「考える」とかっていうのとちょっと違うのかもしれない。

思考を手放した感覚の世界、脳から解放された体の世界、それって「自然」なのかもしれない。

「自然を求める」、「自然を愛する」っていうのは「体を愛でる」ことなのかもしれない。

体を大切にする。

体の状態を無視して、脳で決めたことをおこないがちなのが現代の人。

だから瞑想やらマインドフルネスやらがクローズアップされるのだと思う。

キャンプがブームになるのも、自然への回帰なんて表現されるけど、思考から解放されるために身体性に目を向けようっていう流れなのだと思う。

私も最近になって、サウナに行くようになったり、走るようになったりしているのは、思考の世界から離れる体験を求めているのかもしれない。

そのくらい「思考の世界、脳の世界」が日常になってしまってる。

社会とは脳そのものだ。

自分の頭で考えよう!というのが、私の一つのテーマになっていたけど、「体を使って考えよう」にテーマが変わりそうだ。

といっても、そんなこと昔からやっていたわけで、テーマが変わるというより、偏っていた方向が修正された感覚だ。

フラフラしながらもできるだけ「何かと何かの境界線上」を歩きたいな、と思う。

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フクダヨウスケ
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