現状を知ることで、次にどうすればいいのか見えてくる
定期的に私の中に生まれる「語尾を変えたくなる」問題。
これは衝動のように突然現れる。
以前にもそのような記事を書いた気がする。
そしてまた最近、語尾が気になり始めた。
ずっと「だ、である」みたいな語尾にしていたけど、自然に「です、ます」調で書いているときがある。その時は書き直していた。
あまり拘らなくていい気もするけど、両方があまりにも混じっている文章は読みにくいのではないだろうか?とも思う。
しかし、この衝動がしばらく続いているので語尾が安定しない文章になるかもしれない。
読みにくい文章になってしまっていたらお許し願いたい。
さて、
親の介護費を憂慮して、教育費が捻出できないという理由で子育てを諦める層があるらしい。
真偽は不明。
でも、本当にいても不思議ではない。
かつて長生きがおめでたい時代がたしかにあった。
長生きを祝う催しは今でも地域にあるのではないかな?
今は長生きは幸せなのか考えなきゃいけない時代だと思う。
医療の発達によって延命ができるようになってきましたね。
平均的なデータから見て、もっと長い人生が過ごせるだろう人に、医療技術は提供されて、平均寿命が延びてきたのだと思う。
そんな風に平均寿命が延び続けて、我が国はなかなかの長寿社会になりました。
そんな医療資源は限られたリソースです。
限られたりソースを、何に対して優先的に使うのか?
それを考えるのは、医療者側でも、政府でもなく、「個々」だ。
それぞれが自分の残り時間に対してどの程度のリソースを割くか、決定しないといけない。
まあ、我が国は安楽死は認められていないみたいだし、医師は患者に対して医療を提供する義務みたいなモノがあるらしい(詳しくないのですいません)。
私個人的には、様々なリソースは、これからの未来を生きる人と、社会を引っ張っていくリーダーになる人に使われて欲しいと思います。
他の人もそう考えるべき、なんて微塵も思わないけど、「いい加減退場しようよ、後進に譲ろうよ」と思わざるをえない場面も見るので複雑です。
こんな風に個々の意見を持っていたとしても、この国は意見ののべ方として代議制をとっていますね。
自分の意見を代弁してくれる人を議会に選出して、自分たちの思うような社会にしていくのが理想。
いわゆる選挙ですね。
今、選ばれている人は、一定の人数の声の代弁者として国会にいるわけです。
その人達は、自分に意見を託してくれた人のために発言します。(するはず)
そうなっているかどうかを、私達は注意深く監視して、常に代弁者を探し続けないといけません。
選挙に参加しないのは個々の自由だけど、今、世の中を動かしている人はどんな声の代弁者なのか、考えてみる必要はありそうです。
多数決による決定なので、単純に自分の声は少数派かもしれない。意見が届かないのかもしれない。
でも、声を挙げないと多数派なのか少数派なのかもわからない。
政策を見ていると多数派はどんな声で、代弁者は誰のために意見を言っているのか、透けて見えるときがあります。
さて、限られたリソースは残り時間が多そうな人のために使われるのか、残り時間が少ない人のために使われるのか。
力がある人のためだけにリソースがあるのか、弱き者のためにリソースがあるのか。
どんな社会を望むでしょうかね?民は。