自分自身を知ることについて
自分を知ることができれば、人生というのは多少生きやすくなるのではないでしょうか・・・
私的としては、その方法は2種類あると思っています。
自分から出たるものを見る
一つ目。
「自分から出たるものを見る」
現実として起こったこと、は「何か」がそうさせた、と考えます。(私は運命思考が強い・・・)
あなたが知覚する現実世界で「起きたこと」を考えた場合、この「何か」というのは、あなた自身であると考えます。
これは、言い換えると、あなたが体験することは、あなたの「想い」によって作り上げられたものだろうと言えます。
脳は情報の全てを知覚するわけではありません。
取捨選択しています。
取捨選択の基準は誰が決めたのでしょう?
脳でしょうか?
おそらく脳ではなく自分自身です。脳は自分自身を近くするための道具じゃないかと思っています。
これは自我と呼ばれるものかもしれません。
自我は経験によって作り上げられていく認識パターンとも言えます。
あなたに降りかかる情報は脳に集められ、取捨選択はあなた自身という存在があなたに気づかれないところで行い、その情報に対しての意味づけを自我が「感情を」使ってあなたに教えてくれています。
知覚は、自我を超えた自分の存在が自分自身に教えてくれている、ということでしょうかね。
経験している現実、選び取っている情報を並べることで、「自我の存在」に気付くことができます。
しかし、自我と「本来の自分」は異なる場合が多いそうです。
自我が快く受け入れている情報の集合体が本来の自分が求めていたこと、抵抗している感情に気づいたらそれが自我というものらしいのです。
現実に起きる出来事に意味なんてなくて、意味は自我によって作られている気がしています。
だから、何か自分の外部から情報をキャッチした時に、心地よい感情で受け入れられるなら「本当の自分」が望んでいること、ネガティブな感情とともに受け取っているなら自我が抵抗していること、と言えます。
自分の外側を見て、自分はどういう風に受け入れたかを知ることで、自分自身がよくわかるになると考えます。
自分の内側を積極的に出す
二つ目は
自分の中を積極的に出すことです。
先ほどは起きた現実を整理していく方法でしたが、今度は積極的に自分から出していくことで自分を知る方法です。
整理して眺める、という意味ではどちらも大して変わらないのですけど。
・気持ち良いと感じる瞬間(好きなこと、楽しいこと、ワクワクすること)
・怒りを感じる瞬間(許せないこと、嫌いなこと)
をそれぞれ20個ずつあげてみる、という課題を自分に課すと、自分の認識パターンが見えてきます。
本来の自分は「苦しむこと」も「楽しいこと」も意味づけしていません。
経験するために、自我と分離して、自我によって意味づけがされます。
光を求めるなら、それが生み出す影も受け入れる覚悟が必要になります。
書き出すことで自分の基準みたいなことが見えてきます。その基準みたいなものが自我に近いのだろうと考えます。
何をどういう風に求めているのか、知ることが人生ですよね。
書き出すという行為は、時間と筆記用具さえあれば、誰でもできます。
書き出した後、どうするか。
それはあなたがどうしたいか、によって変わってきます。
まとめ
まあ、偉そうに言いながら、私自身、自分のことをよく知るために、今も研究中です笑
自分自身を知るための、最もパワフルなアイテム(ツール、リソース)は他者ですね。
他者は自分自身に何かしらを教えてくれます。
「この人嫌いだわ」と思う相手がいた時。その嫌いな相手のやっていることは、実はあなたも行なっていること。
それを学ぶチャンスなのですよね。
逆も然り。
多かれ少なかれ、他者をみて自分自身を知ることになります。
反面教師ってよくいったものです。