お金に関するマインドブロックを観察する
個人事業を始めようとしていた頃に読んだ本に、「お金に対するマインドブロック」という言葉があったのを覚えている。
当時のことや本の内容はよく覚えていないけど、自分の中にお金に対してのブロックはないように思っている。
お金はなんらかのやりとりには必要になるわかりやすくて手っ取り早いツールだ。
その役割についての共通理解が周囲の人たちで得られている。
お金に対しての価値の置き方は、多分様々ではある。
私のように「記号」とか「道具」と思っている人もいれば、「命の次に大切」あるいは「命よりも大切」と思っている人もいる。
私にとってお金は不要なものではない。あれば嬉しい。
ただ、その量を競う争いには興味がないし、価値の判断としてお金以外の尺度を持っている。
お金を増やすこと、たくさん持つことが好きな人はいて、その人たちのことを悪くは思わない。
すごいなあ、と思う。尊敬する。
私は増やせていないし、たくさん持っているわけでもないから(笑。
自営でも法人でも、自分でビジネスを回した経験があるから、大きなお金を動かす能力がある人がどれだけのことをしているかは理解しているつもりだ。
私自身は、身の回りのことができる程度にはお金が動いているので、それでいいかな、と思っている。
お金に対してはそんなふうに付き合っている。
人付き合いに対してのブロックは自分にはありそう。
そんな風に感じる。
高エネルギーの人や、大多数の人との現実的な交流を避け、小さいコミュニティーで生きていると、得られる循環も必然的に小さくなる気はする。
それは、お金に限った循環ではない。
なんというか、縁の循環というか、関係の濃さというか、そういうものだ。
縁が薄くなれば人としての成長にもつながらない気はする。だから、時々「これでいいのだろうか?」と思う瞬間はある。
ただ、現代ならインターネットがある。
物理空間上のやりとりを多くしなくても、情報空間上でのやりとりは可能な時代とも言える。
自らを記号にして詳細に発信をすれば良い。
私が好きな村上春樹さんも、岡潔さんも、一見すると人との交流を避けてるように見えるけど、色濃くつきあう人はいたし、何よりも世の中に作品を出している(残している)。
そのこと自体が「情報体」の交流になっているわけだ。大量の情報発信によって多くの人との交流が行われている。
ちょっと誤解していた。
物理空間上のエネルギー循環は得意ではないし、多くは望んでいない。
それを増やそうと頑張ることもできるけど、どうも気が乗らない。
だったらそうじゃないエネルギー循環を頑張れば良い
それが自分を情報体とした時の私の交流なのか?
そちらを増やしてバランスをとれたらいいのか?
もちろん物理空間上の交流を放棄しようとは思っていない。
でも、何かの制限を自分にかけているように感じる。
耳なのかな、気にしてるのは。
聞こえにくいとコミュニケーションが面倒になる時がある。
大勢が集まる場でのコミュニケーションを避けがちなのは、間違いなく耳が不快だからだ。
人類は「集まる」ことで文明を発展させてきた、と誰かが言っていた。
私はその「物質的なムーブメント」には乗りたい気持ちが起こらない。
小さい集まりでいい。
自分が心地よいと思える程度の。
そんなふうに思うから、お金の回りも小さいのかしら(笑
これからは、大きいか小さいかの二極化じゃなく、サイズに関係なく「価値と意味」に焦点を向けた多極化になっていくのだろう。
そうあって欲しい。
私はそういう世界を選んで生きる気がする。
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