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きざはし

若者が大人になったことを慶ぶ日である。
成人の日や誕生日に急に大人になるわけでもなかろうが、いつまでも子供でいるつもりが、気付けば老境にさしかかるような年齢を迎えていて驚く。大人へと向かっていく中でのどんな体験も後で意味を付け足したくなるものだが、何の意味も見出しようがない経験もあってむしろその方が数としては多いかもしれない。ただそれは年齢を重ねた今では得られようもない逢着であったことに呆然とする。何の意味もないことの積み重ねが僕という人間を形作っている。




僕が少年から青年へと歩を進める頃、西方に北アルプスを望む或る山に、まるで何かに導かれるように登ったことを憶えている。
四月かそれとも五月だったろうか。

唯一人、山域に分け入ることは実に心地良い。誰にも会わず誰と言葉を交わすことなく、山と向き合う。山と向き合うことは自分と向き合うことでもある。山と己と時間をかけてゆっくり対話することで、また里に下り生きにくい人の世を生きていく覚悟ができるというものだ。

急な百曲りの終盤で森林帯を抜けると空が開ける。登ってきた高度をようやく理解し、露出した山肌が目に写る。

その時僕は、稲光のような閃光を頭の中に感じた。蒼き空を背景とした嫋やかな峰々と荒々しい岩峰に対して発情したのだった。人間との対極に存する清らかな稜線が堪らなく悩ましいほど美しかった。ごつごつとした岩肌に容赦なく打ちのめされる自分を想像した。今まで経験したこともないような、衣服を突き破らんばかりの圧を下腹に感じた。それは足元の土塊から両の脚に伝わり、僕の全ての血潮をそこに集め、これ以上ないくらい漲り、僕の四肢の力を奪うのだった。もう立つことも能わず、弱々しく両膝を着くしかなかった。山に魅入られた者がそれに屈して跪く姿だった。

僕はどうしたらよいか思案する間もなく、着衣を緩めると頭を地面に着け、どさりと身を投げ出した。草むらの匂いと、陽に照らされて温められた土の湿度が、鼻腔を抜け肺を満たしていくことを感じた。まぶたを閉じ、それらの空気を体内にしっかりと捉まえた後で、仰向けになりもう一度目を見開いた。標高の高さは空の色の濃さを深くする。遠い山脈は薄蒼く空に馴染み、これから進もうとする山頂への稜線は僕の精神を柔らかく撫であげた。


名を知らぬ鳥の声がするのであった。

規則的に草の擦れる音がするのであった。



握力の強さに変化をつけた瞬間にその時は訪れた。思わず背を反らすと導火線を駆け上がるように脊髄を火種が焦がし、半ば開いた口から、あ、と声が漏れた。全身の神経の隅々まで強い刺激が駆け巡り、生命の粥が迸った。それを後々の僕は快楽と呼んだかもしれない。だけど、その時僕が感じたのは、清冽で無垢なもの、自然に対する恥ずかしさ、そして拒絶だった。


それは気高く、そして聖なる祈りでもあった。死を持ってこの肉体を還すまで、決して一緒になることはできないこの大いなる自然と、ひとつになりたいという祈りであり、またそれは死ぬまで絶対に叶わぬことを悟るための儀式でもあった。

言うまでもなく、自分を弄ぶような行為は13の時覚えて以来、何百回、何千回と経験してきた。異性に対する憧れと寒々しい快楽を得ることがその理由で目的だったろうけど、この時は確かにそうではなかった。この、人に言えぬような通過儀礼の中で、とてつもなく大きな存在に抱きとられ、突き放され、自らが孤独であることを僕は悟ったのだった。



暫くはかたく目を閉じ、草いきれにむせるように身を任せていた。やがて僕は体を起こしまた山頂を目指した。



後年になって僕は思う。
何かを知り、何かを失うことで少年は少しずつ大人になっていく。まだ稚拙だった僕の魂は、この後も凡百の出来事を重ねながら成年に近づいていこうとする。その度に何かを得、何かを手放し、ありきたりの大人になっていった。もう今では見ようとしても見ることのできない何かが、少年時代の僕には見えていたのかもしれない。
この儀式に何の意味があったのか分からないけれど、それは確かに大人に向かおうとする参道の途上でくぐった一つの鳥居であったことには間違いない。




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