成田空港問題との出会い(僕が地域活性団体を立ち上げようと思った理由その2)

前回に引き続き、僕が日本を繋げる地域活性団体を立ち上げようと思ったきっかけについて話していきたい。

僕は中上健次の「岬」を読んだのをきっかけに、社会問題に大きな関心を持った。被差別部落の問題を始めて知り、「差別」について考えるようになった。そんな中で、徐々に成田空港の建設反対運動=成田闘争について関心を持つようになっていった。

成田空港問題について自分なりに考えをまとめてみた。

1960年代、日本が高度経済成長期に突入する中で、政府・財界は、日本を発着する旅客機の数を増やし、日本の国際競争力を高めるために、羽田空港の拡張化もしくは新空港建設を必要としていた。しかし当初、羽田空港の拡張は多摩川の河口を塞ぐことなどによる環境的要因や、都心上空は米軍の横田空域であることなどが理由となり、羽田空港の拡張が断念された。そのため、新空港の建設が必要とされ、千葉県印旛郡富里村・八街町が最も有力な候補地として挙げられた。それを聞いた富里村・八街町地元住民は、即座に大規模な反対運動を展開した。反対運動の高まりに危機感を覚えた政府が、突如、成田市三里塚に空港建設予定地を変更したことにより始まる。

三里塚の問題は全国の問題だ。

その後、三里塚の住民による大規模な反対運動が40年以上、現在まで、展開されているのだが、ここまで問題が大きくなった要因は、戦前にまで遡る。

ここ三里塚は、開拓に適した土地ではなく、戦前は、古村といった古くからの開墾地を除けば、多くが未開墾地であり、御料牧場とされていた。その土地に最初に開拓を始めたのは、戦後開拓事業による入植者である。入植者の多くは、戦前、元満蒙開拓団の引き揚げ者や、戦争による荒廃と米軍統治により、帰郷ができなくなってしまった本土沖縄県出身者などであった。
戦後、重機がない中、身一つで開墾を行い、電気や水道もない中、「オガミ」と呼ばれる掘っ立て小屋で生活していたという。入植者は、貧困極める中、命をかけて開墾を進め、国に頼らず、自らの手で生活を向上させていった。
開墾から15年程経ち、生活がやっと軌道に乗った1960年代、突如政府は三里塚に空港建設を表明したのだ。しかもその背景には『三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であれば「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である」』(注)との政府の思惑があった。
戦前、半ば強制的に帝国政府の植民地開拓に従事させられた、満蒙開拓団の人々や、戦争の捨て石にされ、戦後は米軍占領の盾にさせられた結果、故郷を失った本土沖縄出身者が、戦後、政府から何の支援も受けられず、今度は、身一つで未開の開拓を余儀なくされ、やっとの思いで開拓が軌道に乗り始めた時に、「貧しい農民相手であれば簡単に落とせるだろう」といった政府の勝手な都合により、地に落とされた。これは彼らの血と汗と涙を踏みにじる行為であり、戦前から何度も国に振り回され続けた三里塚農民の怒りはとうとう爆発したのだ。
その後住民らにより、反対同盟が結成されたが、共産党や社会党が党派拡大を狙い介入を始めるようになった。始めは受け入れていた住民も、徐々に不信感を高め、それらの政党と決別するようになっていった。そこに、学生運動を展開する新左翼の学生などが支援にやってきて、住民と一体化してしまったのだ。
それ以降、運動は過激化し、住民・学生・機動隊双方に死者を出すなど、現在まで続く成田空港問題へと発展していった。

まちづくりと政治は本質的に同じ

振り返れば、成田闘争の問題は僕の原点であり、「まちづくり」に大きく関わる問題であったと言える。日本では、「まちづくり」や「都市計画」というと行政主導による公共施設や高速道路、また大手建設企業が手がける超高層ビルといったイメージを抱く人も多いだろう。しかし「まちづくり」はそこに住む市民が自分たちの土地をどうしていきたいか。といった私たち市民のビジョンを決める政治の最小形態であり、自分たちの生活を豊かにするための武器である。三里塚では、自らが築いてきた農地やまちが突如として奪われ、一面コンクリートの滑走路に塗り替えられてしまった。つまり三里塚住民は、自らの手で「まちづくり」を行なっていく権利を剥奪されたのである。

成田空港問題を知った当時、僕は中学2年生だった。成田空港問題を学ぶ中で、成田空港問題は決して他人事ではない、ということを実感するようになった。

それが、2015年夏のことだった。国民を二分した安保法制の議論がなされる中、成田闘争や岬を通して学んだことが現実に現れている目の前の問題と重なった。それをきっかけに、社会運動に関わるようになっていった。

づづく。

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