人は勝手に救われるという話
誰かのためにやったことは、だれかのためになるかもしれない。
でも、自分にやったことがだれかのためになるかもしれない。
西尾維新著『化物語』の台詞の中に
「勝手に助かっただけ」っていうものがあるんですが、
言いえて妙だなあと思った今さっきです。
すべてがすべてそうだとは言わないけれど。
救おうと思って救われるものもあるし、
何の気なしにしたものが、誰かを救うときもある。
ようは当人たちの見方の問題。
救ったと思った側と、救われたとは思ってない側ってのが一番救われないお話ですねゲシュタルト崩壊しそうです(笑)
ここで、前者の人が「救ってやったのに!」とか「助けてやったのに!」とか怒りだしたらそれこそ収集がつかなくなっていく。
親子関係とかでありがちな構図な気がしますがそれは置いておこう。
まあだから、どちらにしても、どんな見方を持ってるにしても、それをどっかに押し付けるのは私は好きではないなというお話なのでござる。
願わくば、わたしは自分の好き勝手やってることで、まわりが「勝手に」救われてくれればいいなぁと思うわけです。
この場合すでに「救い」ではなくなってるのかもしれないけど、まあ、なんかしらのなにかが起こったらいいなあと思っている訳なのです。
私にとって、誰かのためにって、すんごく重いものなんだなあって今思いました。私は好き勝手してたいです(笑)
でも私が真価を発揮するのは外から求められたときなんすよね(=゚ω゚)ノそして人はめちゃくそ選ぶ
人を選ぶってどうなのかしらーって思ってたけど、なんつーか、いいんだなって、こないだ美容院行って思いました(笑)
ひとってものすごく、ある意味で、勝手な人間で、
西尾維新著、戯言シリーズの「クビスメロマンチスト」の中で
殺された少女の殺された理由に心当たりはあるか、この子は殺されるような子じゃないっていう話をしている中で、主人公のいーちゃんが
「例えば歩いているときに肩が当たったかもしれない、当たらなかったかもしれない」って言っていて。おもしろいなあと思ったのです。
(西尾維新さんは言葉遊びがおもしろいのですよ、「だましてませんよ、嘘はつきましたが」とかお気に入りです。)
人が殺される動機、一般的に見たら前者の方が支持が高そうな気がするんですが、後者もありますよね、なにかの都合でぶつかってほしかったのに、ぶつからなかった。前者も後者もどちらも自分勝手です。
自分の行動が他人や世界にどう波及するかなんてまったくわからないって話。
そんなことを考えていたら何もできなくなりますね。息をすることだってできなくなってしまうわけですな。
だからまあ何が言いたいかっていうと、
好きなことせいやーっていうことと、
とやかく言われたってあなたの問題ではないのですよってことですな。
あなたの存在が誰かの救いになるし、誰かの救いにならない。みたいな話。
いやでも一周回って、悪意ってないんじゃねーかなって思うのです。
ここだけ切り取るとめっちゃ語弊を生むと思うのだけど、悪意があると感じるのは受け手なのであって、発信側に悪意があることって、そんなにないんじゃないかと思います。
それをとったって根本原因をたどったら悪意じゃなかったてきなサムシングなので、純粋な悪意って、もうそれ悪意じゃないよね、みたいな。
なにが言いたかったのかわからなくなってしまった話。