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エンドロールが終わらない

「あの言葉を教えて。ぼくも一緒に言う。」
パズーがそう言ってシータの手を取った時、私はハッとして洗濯ものを畳む手を止めた。『天空の城ラピュタ』の終盤のシーン、シータとパズーが「バルス」とラピュタを滅ぼす言葉を唱える前のセリフである。子どもの頃からこの映画を何度も見ているというのに、家事をしながら子どもが見ているテレビ画面を横で流し見していたら、このシーンが急に鮮やかに飛び込んで来た。

飛行石を発動させ、ラピュタを滅ぼす言葉「バルス」は、ラピュタの血筋の者(シータ)が唱えないと発動しない。つまり、パズーが一緒に言葉を唱えるかどうかは、結果には関係がないのである。

なのにわざわざ手を取ってバルス、と一緒に大声で唱える。シータが負っている責任の重さを、共に引き受けようとするような無鉄砲な潔さ。あまりにも眩しい。パズーは設定上13歳らしいのだが、13歳の少年にそんなことが可能なのだろうか。いや、むしろ13歳の少年だからそれが可能なのかもしれない。などと40歳の妙齢女性になった私は、洗濯を繰り返してバッシバシになったバスタオルを畳みながら考えるのである。13歳のパズーはあんなにも潔いのに、40歳の私はいまだにバスタオルの捨て時が分からない。

40歳なんていうのは言い訳のしようもない完全な大人だ。子どもの頃は40歳になったら、ラピュタのことも飛行石のことも忘れて、政治とか経済とか金融とか仕事とか生活とか、なんだかそういうザ・現実みたいなことが人生の大半を占めていくのだろうと思っていた。空想や物語は小さな鞄にしまい込み、現実に適応して生きて行かねばならない、となぜだか恐怖すら感じていた。しかし実際には、40歳になったって、余裕で天空の城の話をしている。

20代だって30代だって映画や文学やその他多くの物語がいつでも近くにあった。そして、それらを媒介にしなければ社会や他人や自分というものがよく分からない自分の性質は、現実を生きていく力の弱さの現れのような気がしていた。だけど今となっては、むしろ私の中に積み重なった幾多の物語が、年月で洗われた分、飛行石さながら失われない輝きを持ち、心臓近くの大事な部分に眠っているという気さえする。現実とか社会という前に、大切に握りしめた光が、私の生きることそのものに直結していた。

2024年の10月で40歳になったが、1番驚いたことは誕生日のくる前日まで自分は30代だったということだ。数字上は分かっていたはずなのだが、勝手にもっともっと長く生きてきたような気がしてした。山田が死んでからのこの6年間は本当に長かったとか、子育てをしていると主役が子供に移り変わっていく気がするとか、白髪が増えたとか、体調不良が治りにくいとか、理由を色々考えることは出来る。40歳なんてまだまだ若い!と言われても、この時間感覚は、若いとか若くないとかの判断を超えて、この数年間は特に強くうっすらと日々の中を覆っている。

それは、映画館の椅子に座って流れていくエンドロールを眺めている時に似ている。終わってしまった本編の余韻をかみしめながら、ただ流れていく文字を見ている幸福な時間。その時間もそうそう悪くはないのかもしれない。

しかし流れていくエンドロールを眺めながら、こうも思う。
このエンドロールなかなか終わらんな?

40歳になったちょうどその日の朝、アドベンチャームービーのような夢をみた。グーニーズやインディジョーンズみたいにトロッコで洞窟を駆け抜けたり、突然現れる魔物と戦ったりしていた、と思う。そして細かい部分が曖昧な夢の中で、ただひとつだけはっきりと覚えているのは、誰かに向かって、私が必死で語っていたことだ。

「ちゃうねん、人間として好きでも嫌いでもな、スピルバーグの映画は全部みなあかん!」

起きた瞬間、そりゃそうやな、と思った。スピルバーグの映画は全部みなあかんに決まっている。映画の検索サイトを開いてスピルバーグの映画を確認する。「ジュラシックパーク」や「E・T」は子供の頃飽きるほど見た。でも最近の「ウェストサイドストーリー」は見てへんな。あとやっぱりスピルバーグの自伝的映画「フェイブルマンズ」は見なあかんか。あれ?もしかしたら「ジョーズ」ちゃんと見たいことないかも。

エンドロールは終わらないが、まだまだ見るべき映画は沢山ある。本編の余韻を残しながら、もしかしたら次の映画のプロローグが始まるのかもしれない。

エンドロールの行く先は、誰にも分からない。

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Yuri
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