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『富士山』 ー 平野啓一郎

 昨年2024年に公開された映画「本心」で、主人公が母を助けようとして事故に遭ったのが2025年のこと。それから1年間病室で眠り続け、その間に変わってしまった社会に復帰してからさらに1年後にストーリーが展開する。
 なので、亡くなった母をVF(ヴァーチャル・フィギュア)で再現するようIT企業に依頼するのが2027年だ。いまから2年後にそんな事業が始まっていても不思議ではないと思ってしまうが、2019年から2020年にかけて地方新聞に連載された平野啓一郎原作の小説『本心』は2040年代の設定でまだまだ先の話しだった。映画化までの5年間で時代が10年以上早まったことになる。

 VFはゴーグル型端末の仮想空間に人間を登場させる仕組みではあるが、母の姿をしたフィギュアに会話させるのは機械学習によるAI(人工知能)だった。生成AIは約2年前の2022年暮れに ChatGPT が世界に向けて一般に公開されてから様々な場面で利用されるようになった。昨年12月にはChatGPT を運営するアメリカのオープンAI社CEO(最高経営責任者)のサム・アルトマンは1週間の利用者が3億人になったと発表した。昨年8月時点で2億人だったから利用が急速に増加している。
 さらに今年、2025年に入ってから発表された中国発の生成AIディープシークは開発手法、開発費用などの面でいろいろと話題になっているが、少なくともこの分野の進化は著しいことがわかる。平野啓一郎はそんな新しい流れをさらに先んじて取り上げていたことになる。

 そして、昨年10月に『富士山』が出版された。5つの短篇小説がまとめられた本である。私は、平野啓一郎が向き合ったテーマに自ずと関心が湧いた。

(この後、私の感想になりますが、説明のためにネタバレがあります。初見の読書感を大切にされたい方はここまでにされたほうが良いかもしれません)










 最初からすれ違っていた。

 丸ノ内線で無差別殺人事件があった。襲われそうになった塾通いの小学生二人をかばって亡くなったのが五か月前にほとんど自然消滅していた相手だった。

 婚期という強迫観念から婚活アプリで知り合ったのが彼で、東京から浜松まで旅行するのに富士山が見える窓側の席が空いているという理由で「ひかり」ではなく「こだま」を選択したことを主人公の女性は理解できないでいた。オタクとそうじゃない人の間にはわかりあえない壁がある。その時点で交わり合うことがないすれ違いだった。会っていて不快な思いをしなかったというだけで、積極的な理由も見当たらない。後から気がついたその違いは次第に増していく違和感につながる。

 通過待ちのこだまから見えた反対方向の新幹線には、学校がある平日にもかかわらず女の子が座っていた。その子は世界共通のサインで窓越しに助けてと言っていた。女児誘拐だった。説明しても理解できない彼を置いて、その子がいる反対側の新幹線に乗り込んだ。心配した通りの事件だった。

 結局、彼は一緒にこだまを降りてくれなかった。相性のいい相手だったら、あるいは本当に好意を持ってくれている相手だったらすぐには理解できなかったとしても彼女を心配して追いかけてくるはずだ。瞬時にわかり会えるなんて簡単なことではないのだから、まず同じように行動してみようという覚悟が彼にはなかった。彼に、彼女との間にまだ距離感が残っていたのだろうか。
 彼女も誘拐犯が捕まった後で、浜松には向かわなかった。旅行を続ける気持ちにはならないだろう。被害を受けるかもしれない子供を助けるというのは警察でもない普通の人には精神的にストレスが掛かる出来事だ。彼は彼女を追ってこなかったし、彼女も自宅に戻ってしまった。それ以降ほとんど接点は無くなっていた。
 だから、通り魔事件のニュースに接した瞬間は加害者だと勘違いし、被害者だとわかっても、かつて知り合いだったというだけでしかなかった。それでもしばらく彼のことが頭から離れなかった。こだまでの事があったから彼が亡くなってしまったのではないかと……

 二年後、彼と行くはずだった浜名湖のホテルに泊まり、帰りの新幹線は富士山側の席を取った。富士山がよく見えた。胸がしめつけられ、そして、富士山を見られてよかったと思った。
 この時、彼女の心の負担は少しはやわらいだのであろうか。
 でも、彼女はこの後、誰かと結婚できるのだろうか。その前に、誰かと恋愛できるのだろうか。彼女の人生がこれからどうなるかという心配が余韻として残った。

「婚活」「わいせつ目的の女児誘拐事件」「子供のSNS利用」「公的機関職員の対応力欠如」という、社会の問題点となるキーワードが思い浮かぶ作品だった。





 アメリカで理不尽な扱いを受けた海外駐在員は自身の問題で日本に呼び戻され周りに当たり散らしていた。羽田空港の蕎麦屋で彼の被害を受けたスタッフは、母親にその思いをぶつけてしまう。精神的に参ってしまった母親は同窓会の連絡に出欠の回答をわざと送らずに気を紛らわした。なんてつまらないのだろう。出欠を取りまとめていた女性はそれほど仲良くもなかったたった一人から連絡が返ってこない鬱憤うっぷんを晴らそうと、嫌がる会社の部下を遅くまで飲みに連れ回した。

 アンガー・マネジメントができない海外駐在員、カスタマー・ハラスメントからスタッフを守れないどころか、責任をスタッフに押し付ける上司。
 本屋のビジネス書、あるいは自己啓発本のコーナーに並べられている本に書いてあるような話しだ。いや、教科書を実践に生かすのがいかに難しいかはわかっている。世の中はいろいろあって、必ずしも教科書通りにはならないこともわかっている。それでも、それぞれのストーリーでどうにかならないのかという気持ちが高まってくる。

 その怒りの連鎖を断ち切ったのが中国出身の女性だった。受け入れる許容範囲が広いのか、受け止め方が染み付いているのか。言葉を正確に把握できなかったのではないかとおちゃかしが入るかもしれないが、それも回避する方法の一つである。海外旅行の自分に置き換えてみるとわかりやすい。早口の外国語で迫られても細かいニュアンスまではわからないし、意味を把握しようと聞き返して危ない目にあってもつまらない。海外でも日本でも、まずは危ない場所には行かないように気を付けているつもりだし、察知したらそこから離れるようにはしている…… 

 物語では怒りの連鎖は時に五倍に膨れ上がっていた。まるでウイルス感染が拡大するかのようだった。新型コロナウイルスは中国の武漢で最初に感染が確認され、アメリカやイギリスでワクチンが開発されたが、この怒りの連鎖はアメリカで発生し、中国出身の女性でその一つのルートが閉じられていた。ここにも作家のアイロニーがありそうだ。




 ここ数年、マルチバースを取り上げた映画やストーリーが目立ったような気がする。人生の中で重要な選択がいくつもあるが、別の選択をした自分が並行して存在し、時にそちら側の自分にワープしてしまうというのがマルチバースだ。2023年のアカデミー賞で作品賞や主演女優賞など7部門を受賞した「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」がそうだったし、アニメ版の「スパイダーマン」もそうだった。

 乙野おとの四方字よもじ原作の映画「僕が愛したすべての君へ」「君を愛したひとりの僕へ」は離婚した両親のどちらに付くかで違った人生を歩む姿が映し出されていた。興味や得意なことは似ているけれど、周りの人間との関係性が歳を重ねるにつれて別の選択をした自分から離れていってしまう。職場の研究員どうしだった相手が事実婚で同じ家に住むほどの仲になっていたりする。
 子供の頃好きだった女の子がワープした先で交通事故に遭って亡くなってしまった。どこまで戻ってワープし直せばいいのか。年老いるまで研究を続ける。結局、二人が知り合う前まで戻らなければならないという結論になった。そちら側に行ってしまうと彼女との想い出も消えてしまう。彼は躊躇ためらわずそちら側に向かった。そしてその子の記憶がなくなった彼は事実婚の相手が待つ家に戻ってきた。その世界がどの世界なのか、観ている私にはわからなくなっていた。
 自分がどの空間にいるかを示す腕時計型のⅠP端末は「エブリシング・エブリウェア……」の中でも使われていた。乙野さんのストーリーで表現されている「虚質科学」がマルチバースのことだ(と思っている)。
 昨年、前編と後編に分けて上映された「デッドデッドデーモンズ・デデデデデストラクション」は一度だけ過去に戻ることができた。自分の意思でタイム・スリップするのもマルチバースの一つだとすると、親友を亡くすか、人類が滅亡の危機に直面するかの選択だった。本当だったら後戻りできない世界に帰ることができたとしても、別の悲劇が現れる。深く心をえぐられる作品が多い。
 少し前置きが長くなってしまった。

 平野啓一郎の「息吹」は家庭を持つ父親の名前だ。そして塾の試験を受けている息子を迎えに行ったが間違えて早く着いてしまったところから話しが始まる。時間をつぶすのに和菓子屋のかき氷を食べたかったが満席で、普段だったら一人では入らないマクドナルドに切り替えた。偶然近くに座っていた客が大腸検査を話題にしているのを耳にした。気になって自分も検査を受けるが生体検査のため切除したポリープの一つは悪性だった。切除して問題はないはずなのに、その意識が薄れ、和菓子屋で食べたかき氷を思い出す瞬間があった。そしてその頻度が増えていく。そのことを何度も口に出すようになり妻にも飽きれられてしまう。

 マルチバースと言えば様々な選択が重なってたくさんの世界に広がっていくのに、平野啓一郎のマルチバースは分岐の片方が主であって、もう片方の分岐は収斂しゅうれんされる運命にあった。神様から「ちょっと手違いがあったから、元に戻しておくね。大腸検査の話しを聞くのはあなたではなくて、ほんのちょっとの差であなたの代わりに和菓子屋に入った人だったんだ」と軽い感じで言われたみたいに……

 うたたねから目覚めた妻は息吹から聞かされていた口癖を夢の中のことのように感じていた。近くにいた子供に「お父さんは?」と聞くと、子供は不思議そうな顔をした。

 話しはちょっと変わるが、最近公開された 松たか子 と SixTONESストーンズの松村北斗が出演している映画「ファーストキス」は過去のある時間、ある場所へ向かうことができるタイムトラベルだった。過去から現在に戻ってみると大切にしていた写真が少し変化していた。過去・現在・未来がミルフィユみたいに積み重なっているという小説を書いたことがある後輩との会話から、私はこれも広い意味でのマルチバースと思って観ていた。
 未来から来た妻と将来結婚することになる夫が真剣に話し合うきっかけが、それまで何度来てもありつけなかった地元で有名な行列のできる かき氷店 に売り切れ前に間に合ったことだった。「かき氷」は異次元の世界と結びつける象徴的な食べ物なのであろうか。



 自殺願望の男がいた。自分で死のうとしているのではないが、同じことだ。

 彼には兄がいた。

 両親は兄を褒めそやし、彼は疎んじられていた。

 両親に認められたいと学校で良い成績をとっても、兄への当てつけと言い掛かりをつけられ、殴られた。

 この家族はいびつな精神構造を持っていた。いまの時代であれば、イジメ構造である。

 人生に絶望していたであろう。相談に行った区役所では、申請してから誰でもいいので三人を殺せば死刑になれると説明された。二人でもいいが、担当者の判断にもよるから確実に死刑になるには三人がいい。殺人事件の判決のことのようだ。

 彼は学校に通っていた頃、美術室で一つのポスターを見ていた。ドガの自画像が描かれたポスターだった。自画像はまっすぐ前を見ないのはなぜか、はずかしいからかと美術の先生に聞く。鏡を見ながら描くと顔の方向はどうしても斜めになってしまう。それでもその先生はしばらく考えてからそうかもしれないと彼の考えを否定しなかった。逆にそういう視点もあったのかと気づかされた。
 彼に教師になりたかったのかと聞かれ、その理由を自分に問い直した彼女は彼が卒業してから先生を辞めてイラストレーターになっていた。彼女を取り上げたメディアの中で彼は美化されて映っていた。メディアを見た彼の心はわずかに変化したのだろうか。

 サバイバルナイフをカバンに入れて美術館に向かった。それでも一人も刺せないで美術館を出た。別のところで別の人間による無差別殺人事件が起こった。警察が容疑者の自宅を捜索し部屋まで入り込んで犯人のことを暴いていく。テレビの情報番組では事件が報じられ解説者がもっともらしいが的を射ない話しをしていた。
 自分のことのように感じ、この現象に嫌気が差した彼は、区役所に行って申請を取り消した。


 平野啓一郎はどこかでドガの自画像を観ていたのであろうか。ドガの自画像で有名なのはパリのオルセー美術館が所蔵している。一時期パリに住んでいたというから、観ているかもしれない。あるいはこの絵は来日したことがあるので、その時にみていたのであろうか。
 ストーリーの中で主人公が訪れた美術館は上野公園にある国立西洋美術館だった。今年2025年の秋にはこの国立西洋美術館で、オルセー美術館が所蔵する印象派作品の企画展が開催されることになっている。パンフレットにドガの作品もあったが自画像ではなかった。
 少なくとも平野啓一郎はドガを私に結びつけてくれた。私はこの小説を読んだ後の日曜日に国立西洋美術館へ行ってみた。その時モネ展が開催されており、企画展の長い行列を横目に見ながら常設展の会場に入った。新館2階の最後の部屋で椅子に座り、ドガの『舞台袖の3人の踊り子』を観ていた。




平野啓一郎の『富士山』には

   富士山

   息吹

   鏡と自画像

   手先が器用

   ストレス・フリー

の5編が納められている。

(2025年2月)



(冒頭の写真は昨年2024年1月に静岡県富士市あたりを走っている新幹線から撮った富士山 午前8時より少し前で、朝日が照らしているオレンジ色がまだ残っていました 私も新幹線では窓側のE席を予約するオタクの一人になります)

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