寡黙な守り神
ごっさん(93年生まれ 豊見城市出身)
幼少期の思い出を振り返ると、視界の隅には2つの鉄塔がそびえている。
僕は、大学進学で上京するまで沖縄県南部の豊見城という地域で育った。
今でこそ「豊見城市」と名乗っているが、当時は「豊見城村」で、冗談抜きで周りにはさとうきび畑ぐらいしかなかった。
収穫シーズンになると、大きなトラックが列をなし、さとうきびを山積みにして製糖工場へ運んでいく。排ガスの酸っぱい臭いと巻き上げられた土煙はたまったものじゃなかったが、彼らがポロポロと落としていったさとうきびに齧りつき、背徳的な甘味を貪ることはこの地域の子どもたちの楽しみの一つだった。
“さとうきび畑ぐらいしかない”といったものの、この地域には大きな二つの鉄塔があった。
一つは主にNHKの電波を送出するもので、もう一つは民放の電波を送出するものだ。
100メートル以上もある立派な鉄塔はどこからでも簡単に見つけることができ、夜になると赤いランプが鼓動のように点灯した。
両親が共働きだったので、小学校が終わると僕は鉄塔のそばにある祖父母の家へ帰った。
「鉄塔のおかげでこの辺には雷が落ちないんだよ」
祖母にそう言われて、付かず離れずの距離に立つ二つの鉄塔をシーサーのような守り神だと勝手に思っていた。家が壊れるんじゃないかという台風に見舞われても、寡黙に平然と構える二つの鉄塔は頼もしかった。
ボールを追いかけた公園や皆のたまり場だった友達の家、魚を追いかけた小さな川……幼少期の思い出を振り返ると、その隅には必ず朧げに鉄塔の輪郭がある。
中学から那覇の学校へ通うようになっても、教室の窓から寡黙な守り神は見守ってくれていた。ニュースで内地の災害が報じられると、「ケータイが使えなくなっても鉄塔を目印に歩けばいいもんな」と思っていた。考えてみると、物理的にも、心理的にも僕の支えになっていた。
***
大学進学で上京し、東京の会社へ入った。
馬車馬のように激務をこなす日々のなかで、時たま沖縄へ帰れることがある。数年に1度あるかないかだ。搭乗口を抜け、座席につく。電話がかかってこないので、安心して眠ることができる。
機内アナウンスが流れて飛行機が高度を下げ、島の輪郭がだんだんとはっきりと見えてくる頃、あの鉄塔も姿を現す。「帰ってきたなぁ」と思う最初の瞬間である。鉄塔も、心なしか喜んでくれている気がする。「久しぶり、変わんないね」旧友と話すように心のなかで呟く。無機質な鉄塔へこんなにも愛着を抱く人間はそんなに居ないのではないかと思う。
祖父母が亡くなり、家は売り払ってしまった。もう鉄塔のふもとへ帰ることはなくなった。今でも間取り図を正確に描けるほどたくさんの時間を過ごした祖父母の家には、別の表札がかけられ、知らない誰かが住んでいる。
きょうも鉄塔は、人々を見守っている。