苦い、甘い、輝き
おなかがすいた11:11。今日のお昼は何食べようかなあ。本当は毎日お弁当を作れたらいいのに。めんどくさくて、結局コンビニかスーパーのお弁当にしてしまう。
(13:18。結局ごつ盛りのソース焼きそばを食べました。)
おいしいけど、健康寿命を縮めているような気がする。最近食べたコンビニの焼きそばは塩分量が8.6gだった。そんな食べ物、絶対にダメだろうが。こういうものばかり食べていたら、高血圧と診断されるのももう時間の問題かもしれない。
最近、今日から凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』を読み始めた。
まだ2章の途中までしか読んでいないので、人の感想が気になるけど読めない。とにかく、苦しい。グロテスクだ。家族とのつながり、何かを選び取る覚悟と勇気。難しいよなあ。
私は、まだ20年ちょっとしか生きていないし、なにが正しい選択で、間違っているのか、分からない。仮に、周りから「それは間違っている」だとかあ、立派な先人に「そうじゃなくて、こっちの方がいい」と言われたところで、自分が納得できなければ、その選択は正しいとは思わないし、選び取らないんだろうね。
私の家族とは違ったもう一つの居場所がある。そこはもともと働いていた居酒屋のバイト先。そこには色々な人が常連のお客さんとしてやってくる。
最近もそこで飲んでいて、リタイアした後の常連さんと一緒にお話をした。
二人いらっしゃったんだけども、お二人とも本当に博識で、興味深いお話をしてくれる。人間は弱っていくのが当たり前で、だから本当はガン患者とかに対して治療を行わなければそこまでの痛みが無く、眠るように死んでいける、だとか。痛みとかは忘れるように生きている、とか、年齢を重ねていくたびに、幸せホルモン?的なものが出ていて、生きている中での最大の不安である死に対して対抗している、その影響で外的刺激に鈍く、忘れっぽくなってしまう、だとか、だから死が怖くなくなる、とか。それはやっぱり、人間の仕組みでそうなっている、とか。
実際の医学的な根拠は知らないし、私にはその知識はない。
けど、私はそういう話がすきだ。
死後の世界だとか、神様だとか、そういう、あいまいな話。
考えても答えがないからなんだろうか。分からない。考えても答えがないことを考える、というのは人間だからこそだな、と思う。
書き始めたころはそんなことなかったのに、雨音がどんどん強くなっている。一人でいるときに、雨音が強くなってくると、不安感が増すような気がする。私にとっては、強い雨音って、不安を掻き立てる音なのかな。雨音のヒーリングミュージックとかあるのにね。
そういえば、書きたかったことがある。承認欲求について。
私(というか私の家族が、かもしれない)は承認欲求が、希薄だ、と思う。
私が小学生の頃の話で、最寄りが一緒のAちゃんという子がいた。Aちゃんは最寄りの駅について、母親がいるのを見ると、今日テストがあってね、何々ちゃんと遊んでね、ということを親に話し始めたらしくて、それを見た母親は、うちの子はないなあと思っていた、というのを最近話してくれた。
私はそういうことがあんまりなかったらしい。私は、それはお母さんに承認して認めてもらってたから、わざわざそういうこと話して、気を引き付けるとかなかったんじゃないの、と言っておいた。母には、よく言えばね、と笑っていた。
まあ、確かに、思いかえしても学校の事とかを母親に話した記憶はあんまりない。別に知ってほしいと思ってなかったのかもしれない。分かってもらえないから話さない、とかじゃなくて、言葉にするのがちょっと難しいんだけど、母と私が別々の人間である、ということを早々に分かっていたのかもしれない。本能的なところで。
だからといって、母親のことが嫌いだとか、そういうことではない。むしろ、好きだし、尊敬している。
その母からきちんと承認されて、私が存在していて、ここまで大きく育った。だからこそ、私は承認欲求が希薄だ、と思う。
と、ここまでは8/9の昨日に書いたものです。今日考えていることなど、追記でもしようかなあ、と思っていたんだけど、やめます。ながくなりすぎちゃうから。
明日から、仕事休み、うーれしいな。みんなお疲れ様でした。