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今、教師に求められていること

 現在、教育界では様々なアイデアが至る所で出てきています。特にSNSを中心に、学習方法などの所謂「メソッド」に近い形でその仕組みと輝かしい実践が紹介されています。このことは、私自身は非常に肯定的に捉えておりますし、自分もよく実践を参考にさせてもらっています。
 しかし、その反面、その方法が「宗教的だ」「そんなので子どもが変わることはない」など批判的な意見も多く存在します。もちろん、1つの学習方法が絶対解になるはずもなく、そのような風潮は歓迎されるべきものでもありますが、「では結局どうすればいいのか」と不安になる方も多いのではないでしょうか。今回のこのような議論に対し、私なりの見解を述べていこうと思います。

①そもそも論として

 現在私は教職大学院にて勉強をしています。理論的なことを中心に多くのことを学んでいますが、そもそも学問は様々な反対意見との対立で成り立ってきている現実があります。例えば「ゆとりか詰め込みか」のような、かつてのホットワードも、大きく捉えれば反対意見との共存と見ることができるでしょう。何か新しい考えが生まれたときに必ずその反対の意見も同時に生まれると言えるかもしれません。これは言わば光と影という関係性を表しているのです。その「そもそも」の部分を理解しているのか、そうでないのかでは大きな違いがあります。今回は大前提としてその部分を理解しておいていただければと思います。

②絶対解として

 さて、上記のような内容を踏まえてみると、明らかに間違った提唱の仕方があります。それは「これをすれば必ず上手くいく」というような絶対的な正解を唱っているものです。そもそも、1つの学習方法にも必ず影の部分は存在するので、絶対的な正解など存在するはずがありません。その正解はどこかでの不正解になるのです。私がよく言う例えですが、地域的に恵まれており教育水準の非常に高い学校と地域的に困難さを抱え、生徒指導上の難しさを多く抱える学校で「同じこと」が「同じように受け入れられる」ことはないのです。その学校それぞれの文脈での理解があり、感じ方があるのです。それを一概にして物事を述べることにはそもそも限界があるのです。

③児童の実態を抜きにして話される言葉

 私は様々な子どもたちと関わってきたつもりです。学級には集団のレベルがあります。そもそものスタート時点で学級のレベルは当然違います。子どもの実態が異なるので当然です。今、巷で騒がれている学習方法にどれだけ「児童の実態」を加味した提唱が行われているでしょうか。生きづらさを抱える子どもの場合、家庭的な困難さを抱える子どもの場合、学習意欲が非常に低い子どもの場合、逆に何事にも熱心で意欲的な子どもの場合など、様々なケースがあり、それをカテゴリーすることには限界があります。しかし、その子どもの実態にどこまで配慮ができるかどうかが非常に重要なのです。そして、その提唱する学習方法がどのレベルの子どもたちを想定しているのか、こちら側が慮る必要があるのです。それを全て同じとして捉えてしまうのは、受け取る側に問題があると言えるかもしれません。光には影が付き物なのですから。

④教師には柔軟性

 私が出した結論として教師には柔軟性が必要だと考えます。今まで述べてきたような考え方を忘れずに柔軟性をもちながら実践にうつしていけばよいのです。ある輝かしい実践を見ると、どうしても真似をしたくなります。しかし、それがあなたの担任する子どもたちが本当に望むことなのでしょうか。そのままの実践が、そのまま子どもの幸せにつながるのでしょうか。そこが難しい部分なのです。Aという誰かが提唱した方法がAのままあなたの学校で通用する方があり得ないことなのです。時にはその実践と別のBという方法を選ぶのもよし、似たような内容ながらもアレンジを加えたA‘という方法をとってもかまいません。何もそれをそのまま取り入れることはないのです。どこかの誰かが、その誰かの学級で行った方法があなたの学級でも上手くいくと考えることの方がおこがましいと言えるのではないでしょうか。大前提に「あなたの学級でアレンジしてみてね」という提唱者側の意図が存在しているのかもしれません。そこを咀嚼して汲み取るのは私たち側の責任なのではないでしょうか。

⑤終わりに

 最近の教育界では様々なアイデアが出てきています。しかし、それをどのように解釈して実践していくか、最終責任者は教師自身です。何よりも教師は子どもたちの幸せのために実践を繰り返します。子どもの幸せを考えて選択をするのが根本的な部分です。そのことを忘れずに、自分の目で自分の学級にあった方法を選んでいくことができる教師こそ、これからの時代に求められる教師と言えるのかもしれません。

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