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どめ10 「嘘くさい言葉警察」
大前提として,ありがとうは嘘くさい。
「ありがとう」という5文字をここぞとばかりに発声する時,僕の身体は少しの嘘の匂いをまとうようになる。僕から出てくるありがとうがあまりに嘘くさいので,そこら中に転がってるありがとう全てが嘘くさくなってしまうときがある。
なにかをしてもらった時は「ありがとう」と言う。
なにかをしてしまった時は「ごめんなさい」という。
その様なプログラムが僕の脊髄に近いところに組み込まれている。
僕は十分すぎるほど小心者かつ傲慢なので,自分の失態を赦してもらっていない状態に耐えられない。小学校の時などは,傷つけてしまった相手にやたらと付きまとって,明示的に赦してもらえるまでごめんを連呼する,ごめんbotになっていた。ほぼ毎日botになっていた。今思うと,あの状態はバグだよなとおもう。
小学生の時は粗暴なガキで,よく言葉や暴力で人を傷つけていた。
今思うと考えられないくらい,人や物に対する扱いがひどかった。
大変悪いことをしていた。
というよりも,僕の周りは皆悪かった。これがリベラル語でいう「加害性」ってやつか。
それらの暴力・暴言は日常のふざけあいの延長で,いわば犬のじゃれ合いみたいなものと考えていたので,罵り合うことや小突き合うことに友人と過ごす時間のほとんどを費やしていた。心からやりたいことであったと言われれば,そうではなかったが。
僕は小学生の時「サル」という言葉でやたらと容姿を馬鹿にされていた。それらの中傷に対して,僕は主に暴力などを用いて報復を行わなければならなかった。まぁそういうよしもと新喜劇的なノリが僕たちの間にはあった。
「サル」と呼ばれて本当に心底傷ついていたのは小学校低学年までで,高学年になる時には言う側も言われる側も完全にコントみたいな感じになってきていた。そういう種類のじゃれ合いとして完全に確立していた。
このコントに入ってくるプレイヤーは大体決まっていて,基本的には特定のメンバーでコントをしていたが,時々ゲストプレイヤーが参戦してくることもあった。こういうゲストは大抵このコントのお約束をきちんとわかっていない。
追いかけっこ(トムとジェリー的な)が始まってどれくらいで捕まるのか。捕まった後のじゃれ合いがどういう強度で行われるのか(僕の報復はかなり全力だったので普通にめっちゃ痛かったと思うごめん)。
お約束が分かっていないので,彼らは報復に対して過剰に反応してきたり,先生に事情を説明し始めたりして大変な面倒ごとを連れてくることが大いにあった。
そういう時,僕は大抵何度も「ごめんなさい」といわなければならなかった。
嘘くさい「ごめんなさい」を。
でも小学校の時はそれなりに真剣な「ごめんなさい」を言っていたかも。
僕も他の幾万の2003年生まれと同じように,近所のサッカー教室に通っていた。僕は物覚えがよくなかったので,いつも同じミスをして何度もコーチに怒られていた。今思うとなんでそんな大の大人がガキの玉蹴りに対してそこまで怒ってるのかさっぱりわからないが,とにかく毎日怒られていた。怒られるたびに赦してもらうための言葉をいっぱい吐いた。よく泣いたりもしていた。まじで最近涙が出ないので,この頃の涙を本当に返してほしい。
求 あの頃の涙
譲 嘘くさいごめんなさい
バイト中は本当にやたらと謝ってしまう。主にお客さんに対して。
お客さんが探していた商品がお店になかった時とか,自分ではわからないことを聞かれたときとか,お客さんの後ろを通る時とか。
普通にこの「すみません」いらなすぎるなぁと思いながら,条件反射で平謝りしている。
自尊心の肌が大変敏感な方というのはどこにでも湧き出てくる。だから僕らは上にあげたようなはっきり言ってどっちでもいいような時にも謝っておかないと,手痛いお説教に何時間も付き合わされるリスクを回避できない。
このような敏感肌の方がいるおかげで,うちの店のカスタマーサービスは不自然なほどいい。というか多分どこもそう。
たかだか客単価1000円くらいの店で,なぜ尊敬語と謙譲語を使わないといけないのか。まぁどっちでもいいけど。僕の吐くセリフは尊敬語が必要な場面になれば勝手に尊敬語になるようになっている。そういう感覚で敬語を使っているので,僕は言葉の額面上の意味を全く信頼していない。どちらかというと,表情や仕草,声のトーンや目の動きで人の真意を感じ取っている気がする。だから人を一回見たらこの人と仲良くなれそうかなれなそうかとかは大体わかる。これは皆そうなのか,皆はそう思っていないのかってことはわっかんないけどね。
嘘くさいコミュニケーションをいっぱいしているせいなのか,もともとそうなのかわからないが,私生活でも自分の言葉の端々から嘘の匂いがしてくるなと思う。そう,嘘くさい警察になってしまう。
例えば好きな音楽の話をしている時,相手の紹介してくれた曲に対して「俺もすきなんだよね」と言うとき。これは嘘くさい場合が多い。今思ったけど,これが建前コミュニケーションか。
どうでもいい相手とコミュニケーションしてる時,これは建前コミュニケーションだなと思いながら,コミュニケーションしているってことか。
それ結構つらくないか??
どうでもいい相手ってだれ?もしかして僕??
ひとたびそういう建前コミュニケーションに対する不安が出てくるとめっちゃ疑心暗鬼になっちゃうな。
建前常習犯の人って建前と建前ではないコミュニケーションとをきちんと区別できているのかな。できないのでは??と思ってしまう。建前だったものがいつしか本音になっていくというのもあり得るか。そしてそれは私自身にも起こっている可能性が高いというのが恐怖ポイントだな。こわこわ。
世界にはびこる建前コミュニケーションのせいで,僕は人から言われた「ありがとう」とか「ごめんなさい」とかをいまいち信用しきれないときがある。
そのせいか知らないけど,「ありがとう」と言われたときになんて返せばいいかわからない。「どういたしまして」がよく使われるけどこれなんか微妙な距離感の言葉だなと思う。
最近はありがとうに対して,「もちろん」と返してる。
「もちろんあなたのためならこの程度のことはいつでもさせてていただきます。」の冒頭部分。これまじで誰にも伝わっていないと思う。
自分の感覚の問題なのでいいんだけどそれで。
「孫係」は『おまじない』の中でいちばん反響の多かった話で,「いちばん好きです」とよくお手紙もいただくんだけど,それはつまり,みんないい子だからなんだよね。「孫係」を書いた理由のひとつには,ベッキーさんがバッシングされたときに,というか,ああいう騒動になる前から,「ああいう子ほどじつは…」とか「いい子ぶりっこだよね」って言われてて,「その邪推いるか?」ってずっと思ってたのがあったのね。
たとえもし,万が一,彼女が本当にいい子ぶりっこだったとしても,あれだけ誠実で優しい態度を差し出してくれてるのなら,それは逆にナチュラルにいい子の百倍努力してるわけで,わたしたちはその態度をただ受け取っておけばええやん。
これを書いてるのは2024年の11月16日なんだけど,この日は親友と約束があって昼頃に家を出た。家をでて最寄り駅まで20分歩く。その間にふとこの本のことを思い出した。
ずいぶん前に読んだ本に,今日うだうだ考えていたことの答えらしきことが書いてあった。まぁちょっと文脈違うけど,西さんなら「ありがとうと言われてるんだから,しょうもない邪推はやめて素直にうけとればええやん」と言ってくれる気がした。
「そうですよね,素直にうけとればいいんですよ。でもね,やっぱり自分の心と行動が乖離しているというのはなんとなく,嫌な気がする。これは全く自分の問題なんですが,これをずっと抱えてるもんだから,たまに人にもその残り香みたいなのをかけちゃうときがあるんです。許してください。」という気分。
みなさんから頂いてきたありがとうを精一杯受け取りたい。そういう気分になってきた。そのありがとうが条件反射的なありがとうでも,言ってくれたうれしさをちゃんと嚙み締めないとなとおもった。
今日は良い感じにまとまったな。
嘘くさい言葉警察 でした。