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ガトー・ショコラとクラシック音楽
classic (ˈklæsɪk)
adj
1. of the highest class, especially in art or literature
13th Edition 2018
この間、妻が、ガトー・ショコラをつくったと云うので食べてみたら、これがお世辞抜きに美味かった。どうしてこんなに美味しいのだろうと思って素材や製法を訊いてみても、特別なことはしていないという。なぜだろうかと自問しているうちに、そもそも、「つくりたてのガトー・ショコラ」などという貴重な代物を、これまでの人生で一度も食べたことがなかった、ということに思い当たった。
フランスに留学している時に一番美味かったもの、それは単なるバゲットだった。大学への通学路にあったふつうのパン屋の、本当にいま焼き上がったという熱々のバゲットを98セントくらいで買って、店を出てその場で齧った(本当に腹が減っていた)とき、ほとんど衝撃とも云えるものが私の体を貫いた。まさか、バゲットだけで、バゲットを頭から尻尾まで平らげられるとは夢にも思わなんだ。
そういう経験を人生で何回かしていると、もしかしたら、「昔の人は、贅沢だったのかもしれないなぁ」というパラドクスを頭の中に思い描くようになった。
私は、何といってもパラドクスを偏愛している。ふふ。
昔の人は、基本的には、その場でとれたようなものを、その日のうちに食べるしか手段がなかっただろう。「できたて」が基本なのだ。魚の刺身などはわかりやすいと思う。遠くへ運ぶためには、干物にするとか、塩漬けとかにする必要があった。だから「氷見の鰤」と云えば氷見でしか食せなかったはずだ。また、ビニルハウスもないわけだから、野菜であっても旬のものを食べざるを得ない。不便であるが、同時に贅沢でもある。
わたしたちは、歴史のある時点から、時空のバイアス(隔たり)を超えることに執着しすぎた。もっと早く。もっと速く。一言で云えばそのようになる。それにより失ったことが多くある。
むろん、さまざまな数値を駆使して、現代の食生活の方が圧倒的に栄養的に優れており、健康的で、多様であるということを証明するのは難しくない。
だが、おそらく、「ある時代まで」の人のほうが、自然に調和した生き方をしていた。そういう意味で、私は、昔の人はいまより贅沢であったのではないか、と言っている。
昔の人は、実は、いまよりずっと美味しいものを食べていて、いまよりずっと優れた感性で生きて死んでいたのではないか。それは何も、食べ物だけの話ではない。できたてのガトー・ショコラに値するもの。それは、例えば演奏会で聴く音楽がそうだろう。
現代の私たちが、ある新しい音楽を耳にする時のことを考えてみる。それは、かなり多くの場合、イヤフォンを通して、あるいは、ディスプレイを通してではないだろうか。もっと限定して、たとえば楽器をやっている人が、次にこの曲をやる、という時に、参考にする演奏は何だろうか。おそらくはそれも、ディスプレイに曲名が表示されている音楽に違いない。
昔の人がどうだったかを考えてみる。スマホはない。CDもない。レコードもない、という時代のことを考えてみる。録音技術がなかった時代のことを考えてみる。あるのは、生演奏だけだった。というか、演奏とは、生のことだった。生演奏という言葉じたいが存在しなかったかもしれない。何かの曲を聴きたいと思ったら、生演奏を探しにいくしかなかった。もちろん、今のように気軽にどんな音楽にでもアクセスできるわけではない、というデメリットはあるが、よくよく考えてみると、この上なく贅沢なことだったのではないだろうか?
そう考えてみると、クラシック音楽の源流の一つが宮廷であることは自然なことのように思える。また、いわゆるクラシック音楽というものの主流が、録音技術が発達する以前に書かれたということと無関係ではないだろう。
録音技術の発達が、音楽を衰退させたのだろうか? これは、私が扱うには大きすぎるテーマではある。ただ、時代的には符合しているように思える。
では、やはり、できたてのものを食べたり、生演奏を常に味わうことによって感性を回復すべきだから、輸送網をすべて切断しよう。電化製品をすべて破壊しよう。経済を機能不全に陥らせよう。そこまで全体的な運動にならなくても、個人的に、森の中へ隠遁しよう。自給自足の生活をしよう。などということを考えないではないが、そのようなことができるのは、逆説的だが、経済的に成功している人に限る。
現代の問題というのは、おそらく、時代を調節できないということにあるのだろう。「わたしたちは、こっち側に来すぎてしまったので、ちょっと戻ります」ということができない。時間は、進むしかない。したがって私たちができることは、おそらく、空間的なバイアスを徐々に回復させていくことしかないのだろう。