【教育】🖊「学校は本来の役割を忘れてしまった」日本の学校が子どもにとって"しんどい場所"になってしまった根本原因・・・・・(内田樹)
学校は何のためにあるのか。神戸女学院大学名誉教授の内田樹さんは
「今の学校は子どもたちを格付けする評価機関のようなところになっている。それは本来の学校教育の目的ではない。子どもというのは『なんだかよくわからないもの』であるということから始めるべきなのだ」
と指摘する――。
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今の学校は子どもたちにテストを課して、その成績で「格付け」する評価機関のようなところになっている。
しかし、私は子どもたちを査定して、評価して、格付けするというのは、学校教育の目的ではないと思う。学校は子どもたちの成熟を支援する場だと思う。
子どもというのは「なんだかよくわからないもの」なのである。
それでいいのだ。
そこからはじめるべきなのだ。
子どもたちをまず枠にはめて、同じ課題を与えて、その成果で格付けするというのは、子どもに対するアプローチとして間違っている。
昔の日本では子どもたちは七歳までは「聖なるもの」として扱うという決まりがあった。
渡辺京二の『逝きし世の面影』には、幕末に日本を訪れた外国人たちが、日本で子どもたちがとても大切にされているのを見て驚いたという記述がある。
だが、これは日本人が子どもをとても可愛がっていたというのとはちょっと違うと思う。
可愛がっているのではなく、「まだこの世の規則を適用してはいけない、別枠の存在」として敬していたということではないかと思う。
学校というのは、この「聖なるもの」である子どもを迎え入れ、彼らをゆっくりと「聖なるもの」から切り離して、「この世」に誘導してゆく装置である。
子どもたちが本質的に「謎めいたもの」であるのは、彼らが「異界」や「外部」とつながっているからである。
それを切り離して、こちらの世界に連れてくるという、とてもデリケートな「切り離し作業」を学校では行わなければならない。
学校は今では六芸のうち「書」と「数」だけしか教えなくなった。
これは子どもたちを最初から「こちらの世界」のフルメンバーとして遇することである。
私は、それは違うだろうと思う。
学校は子どもたちを「あちらの世界」から「こちらの世界」へそっと移動させる、きわめてデリケートな作業を求める場なのである。
半ば野生の存在である子どもたちを文明化していくというプロセスは「アドレッセンスとの決別」を子どもたちに強いることなのだから、しばしば彼らは学校に通うことそれ自体で激しい痛みを経験する。
かつての日本人は、子どもは壊れやすいもの、傷つきやすいものだと知っていたので、丁寧に扱った。
異界にまだ半身を残している「聖なるもの」だと知っていたので、子どもを「敬する」仕方をわきまえていた。
それはもう現代社会の常識ではない。
それでも、直感にすぐれた教師たちは、学校教育が子どもたちにとって外傷的経験になるリスクを感知して、子どもたちを傷つけないことを優先的に配慮している。
けれども、そのような配慮が人類学的な深い意味を持つことを理解している人は教育行政の要路にはたぶん一人もいない。
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