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時代に葬られた人

令和最初のイベントは朗読劇。
ひとつの時代の区切りになるタイミングで推しの演技を目・耳に焼き付けられるのは良いことですね。

一個人がだらだらと適当を垂れ流しているだけです。あくまで個人の感想です。
今回は購入した上演台本片手にしているので、中味についても少し触れています。(拙ければ該当箇所は消します)

〜今回観劇した作品〜
声の優れた俳優によるドラマリーディング
日本文学名作選 第九弾「こゝろ」
5月1日13時公演

同シリーズの海外文学「ハムレット」がミリも知らない状態での観劇だったのに対して、今回の「こゝろ」は学生時分に読んでいた文庫本を持っていたので、暇を見つけて復習がてら見返していました。

一口で述べると、致し方無いとは承知の上で、約1時間半の尺に内容を収めているためなにせ物足りない。消化不良だなと感じました。
あとは実際に文章を読んで受けた印象と、『演じられること』により受けた印象がかなり違っていたなあ…というところです。

夏目漱石著の本作に準拠し(一応)3部構成での上演でしたが、あれだけ端折るようであれば、上編『先生と私』の実家のくだりと中編『両親と私』要ります?と考えるくらいには、それに付随する内容が薄っっっくなっているように思いました。
まあ無いと話が繋がらないのでなんとも言えないですが。

先生と叔父(身内の金銭トラブル)の内容を語るなら、私の実家での両親とのやり取りも多少必要であるかなと…。
それに、私が急いで東京行きの汽車に乗るまでのくだり。あれだけだと父親放っぽいて家を出たただのクソ野郎のように思えた。(なんやかんや私的には如何に先生が大きい存在だったかはよく判るんだけども)

全体を見ると、どうしても削るのは『両親と私』の部分になってしまうんだろうな…とはなるが、私と先生の物質的な関係性だったりが一番表れるのはこの編じゃないのかな、と公演を終えて改めて思います。でもキャスト4人ということだったり、どうしても私の独白ベースになるだろうしと。色々考えると、演出というのは滅茶苦茶に難しいのだなと感じます。

あとあれですね、下編『先生と遺書』。
演者の台詞量等の問題もあるのは理解していたので、女性キャストが手紙の地の文を読むのはわかる。しかし台本を確認して茫然としました。

女は、夫の遺書を読み始める。

本作は手紙の始終で完結しているので、最終的に私がどのように手紙を処理したのか解らないので何とも判断出来かねるが、遺書の最後に「妻にだけは何にも知らせたくない」と記されているので、便宜上云々だったとしても、それってどうなの…?と思いました。こういう意味合いでないのなら、わざわざ『夫』と加える必要性はないはず。これに関してはよく解らない。

同編の中で期待していた台詞とシーンがあったのですが、それについても一押し足りないなあと感じました。
先生とKの応酬で出てくる、「精神的に、向上心のない者は、馬鹿だ」。
本公演では先生がKに対して一撃を放つのみになっていたが、それより前の房州へ行った際の云々でKが先生に向けた台詞だったことが重要だと思う。そのくだりがなかったので、後の「この言葉が彼にとって、復讐以上に残酷な意味をもっていた」ことに思考が直接繋がらなかった。

大分不満タラタラな文面にはなりましたが、お芝居としては見易いと思いました。何を上から目線で、というような書き方で申し訳ありませんが…。

文章を目で追いつつ脳内で声が付いている時は、全体的に抑揚がなく単調で物語が進んでいました。先生の昂奮する台詞ですら、落ち着き払っているような声で脳内再生されたので…。

生身の人間が言葉として発すると『こういうものになるんだなあ』と感じ、一層個人のイメージと解離しているように思います。ただ初日の感想ツイートをパブリックサーチしていると、今回観劇したものとは違った風だった旨のものを多々見掛けました。
そうなると、かえって自分の観た・聴いたものは自分の理想に近いものなのかもしれないとも考えるようになります。(完全に自己都合の思考回路)
改めて、お芝居ってナマモノだなと感じますね。

心音のSEや、崩御のところの日の丸の照明・君が代、中編で私が手紙を手にした時の台詞回し等等…正直後半は心持がしんどくて吐くのかとすら思いました。

最後の最後、本当のラストの部分。冒頭の台詞を繰り返しいるものかと思いきや。

「君はまだ、大分長く、『ここにいるつもりですか』?」

ひとつの時代の区切りの、彼方側と此方側めいた問い掛けを観た気がしました。