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坂の途中で

  夏の夜、坂の途中で、降車ボタンを押した。
  「次、停ります。」のアナウンスが冷房の効いた車内に響き渡ると、坂を登りきろうと勢い付いていたバスが、肩透かしを食らったかのように、減速し始めた。迷惑そうな乗客を尻目に、吊り革を伝わりながら前に進むと、バスは、停留所の看板がサイドミラーに差しかかる手前で止まり、不機嫌そうなブザー音と伴に扉が開かれた。私は、ウインカー音に急かされながら、運転手に自宅のある坂の上までの定期券を見せて、バスを降りた。

   外は、昼の暑さが、まだ冷めやらず、生暖かい空気が身に纏わり付く。私は、すぐさま、停留所のベンチに腰掛けた。青いプラスチック製の背もたれが付いたベンチだが、坂の傾斜を考えずに置かれたようで、座った途端、私自身が大地と垂直になるように、少し傾いて座らなければならないことに気が付いた。LEDの街灯が私と坂道を照らしている。二車線道路の向こう側には、坂の上から下まで、住宅が建ち並び、二軒ごとに細い道が通っているが、その細い道も坂になっていて、こちらを天辺にして、みんな下り坂になっている。

   時おり、坂を登る車のヘッドライトが、停留所の看板と私を照らしては、隠して行った。
(たっぷりと時間はあると思っていたが。)
(何もかも中途半端、何もできなかった。)
  スマホで明日の予定を確認しようとしている私がいた。スマホのライトに照らされた私は、どんな顔に見えただろう。止めにして、そっとバックに戻した。道を挟んだ向かいの住宅からリビングの明かりが漏れ出ている。
(みんな似たり寄ったりなんだろう。)
(でも、生きるって、とても素晴らしいことなんだ。)

  ここから、家までは、さほど遠くない。さあ、立ち上がって帰ろうとしたが、斜面に立ち上がるのが難しく、少しよろけた。二車線道路の向こうに目をやると、細い坂道を登ってくる娘の姿が見えた。今日は就職の面接だったはずだ。こんな時間に、バスにも乗らず、駅からの近道になっている薄暗い坂道を一人で登って来たのだろう。娘は、私の姿を認めると、道路を渡ってこちらにやってきた。少しよろけたのを見られたかもしれないが、まあ、いいや。
「いっしょに帰ろうか。」

(おわり)

 ホン・ジニョンさんの「生きること(Cheer Up)」に触発されて、創作しました。この曲、とても癒されるのでいつも聴いています。



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