青くて四角いくすり④
さっき、くすりを飲んでからこのかたずっと、私は一人、とある地下街をさまよっている。だいたい半時間くらい経ったろうか。この地下街はアリの巣のようになっていて、一度入ると東西南北の方向がつかみづらい。
JRや私鉄、地下鉄の駅を結ぶ巨大迷路のようだ。いつもは面倒な地下街だが、こういう時には都合がいい。JRから私鉄の駅へ、私鉄の駅から地下鉄へと人の流れに沿って歩いていると、誰にも怪しまれなくて済むからだ。
頬が少しほてり始めてきた。左頬に触れてみると、いつもより温かい。気を紛らわすために、何か考えることにしよう。
そういえば、古典に出てくる遊女との恋物語は、不思議で仕方ない。はたして、金で買った、買われたという関係で、ほんとうに恋に落ちることができるのか。
近松門左衛門の『心中天の網島』なんて、妻子ある紙屋治兵衛と曽根崎新地の遊女小春が恋に落ち、タイトルどおり心中までしてしまうのだ。
治兵衛が小春に恋してしまうのは、よくわかる。初対面の夏菜子に対して、そんな感情を抱きかけているからだ。
だが、どうして、小春が治兵衛のようなダメ男に惚れてしまい心中までしたのか、私にはとうてい理解できない。
実際は、治兵衛の引き起こした無理心中に小春が巻き込まれてしまったか。それとも、小春が、自ら迎える結末に薄々気付いていながら、死ぬまで恋する遊女を演じ続けたか。
いずれにしても、小春の治兵衛への思いは、本物ではなかったような気がする。
でも、ほんとうの恋と見紛うほど小春がしたたかだったからこそ、後世に残る物語になったのではないか。
もしかすると、二人とも恋なんかしてなくて、ただ、世知辛いこの世から逃れたかっただけなのかもしれない。
そんなことを考えながら、地下街をあてどなく歩き続けていたが、ついに考えることがなくなってしまった。仕方がないので、また、夏菜子とのことを思い出すことにした。
★
風俗業界には、後朝の文に似た日記の風習がある。
後朝の文は、男女が一夜を共にした後、翌朝に、男から女に贈る手紙のことであるが、風俗では、接客した翌日に、女の子が客に向けて書き込むネット日記がある。「写メ日記」とか「お礼日記」とかいわれるものだ。女の子の顔や客の名前は伏せてあるが、誰に宛てたものか、すぐにわかるように上手く書いてある。例えば、60分のYさんとか、2時からのお兄さんとか言った具合だ。
さっそく次の日、夏菜子のページを開いてみた。
「Yさん、びっくりされたでしょう、変な格好で。でも、夏菜子のあんな姿見られるの、とてもレアなんですよ・・・。海外出張の話、楽しかったです。また、聞かせてくださいね。全力でお待ちしています」
と、書かれてあった。リクスー姿だったことを隠しておいて、これじゃどんな格好だったかわからない。変態なコスプレを楽しんだみたいだ。
釣りのネタにされてしまったようだが、なんだか憎めない。全力で待っていてくれるのなら、また、行かなくてはならぬ。
それにしても、他の客にはどんなことを書いているのだろう。気になったので、ずんずん日記をめくってみると、
「Yさん、また来てくれてありがとう。6回目かな。海外出張の帰りに寄ってくれて、いっぱいお土産ありがとう。旅先でも夏菜子のこと、ずっと思ってくれてたって、うれしい・・・」
この客が、夏菜子が言ってたもう一人の吉田さんなのだろう。
日記には、写真が添えられていて、小さなチョコの袋とともに、箱から取り出されたリップが少し先を出して写されていた。私が見たところでは、夏菜子には少し派手そうに思えた。
それから幾日か経ったある日、また仕事が嫌で嫌でたまらなくなった日に、ふと夏菜子のことを思い出した。
そうだ、もう一人の吉田さんみたいに何かプレゼントを買って行こう。
百貨店の化粧品売り場なんて、スーツ姿のおじさんが、平日の日中にうろつくような場所ではない。
周りの視線を気にしながら、夏菜子に似合いそうな品物を探すのだが、何がいいのかさっぱり分からない。おじさんなんて、そんなものなんだろう。見るもの見るもの目新しく、輝いて見えた。
とある売り場のショーケースの端っこに、小さな白いたまご型のケースを発見した。ハンドクリームらしい。
「これにしよう」と、店員さんにプレゼント包装をお願いしたら、お店の白い袋の上に、百貨店の紙袋を重ねて持ち運ぶ羽目になった。
外は雨。
濡れないように、紙袋を傘の真ん中に寄せて持っていると、両手の自由が効かないのが、なんとも煩わしい。
前と同じ待ち合わせ場所に五分前に着いた。
ラブホの前に、スーツ姿で突っ立ているおじさんほど、様にならないものはない。今日が、雨でよかった。傘の陰に、隠れることができるから。
しきりに落ちる雨粒のすき間から、前の通りを眺めていると、傘を差した人達が、足速に通り過ぎていく。
行き交う黒い傘の隙間から、一際大きな赤い傘が横断歩道を渡って、こちらに近づいて来るのが見えた。
黒のブラウスにチェックのスカート。長い裾が小刻みに揺れている。
夏菜子に違いない。
目の前で、大振りの傘が後ろに傾くと、中から見覚えのある顔が現れた。
「お待たせしました」
部屋に入ると、二人は片隅の小さなテーブルを挟んで腰掛けた。私は、さっそく夏菜子に紙袋を手渡す。
「プレゼント?」
「そうだよ」
夏菜子は、紙袋の中から白い小箱を取り出して、
「開けていいですか」
と、上目遣いに私を見つめたので、
すかさず「もちろん」と答えると、夏菜子は、うれしそうに小箱を開けて、プレゼントを取り出した。
「ありがとうございます。ハンドクリームね。うれしいわ、大切に使わせていただきます」
と言いながら、夏菜子は手の甲にクリームを乗せて少し延ばしてみせた。
夏菜子のサービスが終わると、二人は、また、飾り気のない天井を見つめながら、たわいのない会話を始めた。
夏菜子が、
「どうして、プレゼントくれたの?」
と、少し詰め寄るように問いかけてきたので、私は、気を悪くされる覚えはないと思いながら、
「プレゼント、気に入らなかった? 実はね、この前、Yさん、もう一人の吉田さん? の日記を見たんだよ。そしたら、夏菜子にプレゼント贈ってて、夏菜子、『うれしい』って書いてたから」
と、答えると、夏菜子は、
「吉田さんは、そんなことしなくていいよ。吉田さん。えーと、もう一人の吉田さんはね、風俗に慣れてるの。風俗ではね、女の子に優しくしてもらったり、ちょっぴりいいサービスをしてもらいたくって、プレゼントを持ってくる人がいるのよ。でもね、吉田さん、あー、こっちの吉田さん。私、普通の女の子なの。そんなことされたって、ちっともうれしくないし、いいサービスなんてしないわ。だから、吉田さんは、そんなこと、気にしなくていいよ。それより、こうして手を繋いでてほしいの」
と言いながら、布団の中から私の手を探し出すと、強く握りしめた。
しばらく二人で天井を見つめていると、夏菜子が沈黙を破るようにして、
「それから、他のお客さんの日記は、見ちゃダメなんだよ、わかった」
と、生徒を諭すように言ったので、
「ああ、わかった」
と、照れくさそうな顔をして、わかったフリをした。
私が承知したことを確認すると、夏菜子が、
「吉田さんは、何が好き? どんな料理が好き?」
と、笑顔で問いかけてきた。
「コロッケ」
と、答えると、
「それは、無理」
仕方がないので、
「じゃあ、ハンバーグ」
と、答えると、
「うん、ハンバーグにしよう。次、予約してくれたら持ってくるからね」
と、次が当然あるように、夏菜子は勝手に約束した。
(つづく)