「こうあるべき」はやめようよ
「こうあるべき」という考え方は、属性と大きく関係があるように最近感じている。
子どものころ、実に個性的な子どもだった。でも、どこかで色を消さなければいけないという空気に気づいた。家庭というよりも学校の影響がとてつもなく大きかったと思う。中学生になると、生きづらさや自己否定などから世の中に対して、斜に構えるようになっていた。自分の色を出さないようにしているのに目につくことが多かったのか、すぐに目をつけられて怒られたりしてますます生きづらくなった。
大人になってもしばらく、自分の居場所がなかなか見つからなかった。今思えば、いわゆる居心地の良いと思える属性がなかったように思う。日本人は特に属性を好む。同じ属性でないものは受け入れない風潮もある。私は、グループがあまり好きではなくて単独で行動して、気に入った人とグループを通さずに単独で関わった。それを不思議に思われていたし、「群れない」ので、深くまではコミュニティに所属できなかったのも事実だ。ところが不安も生まれてくるもので、大人だから斜に構えない代わりに自分を誤魔化して生きてきたと思う。でもなんだろう、そのうちに独りの時間がどんどん必要になってしまったし、人といるとよく疲弊していったりもした。
でも、気づいた。
もう「こうあるべきはやめようよ」と。属性は自分である。
群れて違和感を感じている人は、私だけなく案外いると思うので、自由に生きればいいんじゃないかと思う。私ももしかすると、今まで子どものころ受け入れてもらえないことの経験から、自分自身の色を消さなくてはいけないと思い込んでいただけかもしれないが、1人で立てている人間でもいいのではないのかと知ったら楽になった。その上で、人そのものは好きだから、点で時々人と繋がっていればよくて、べったりと流れを合わせる必要もないと知った。このことを生きづらいと感じる大人だけでなく、子どもたちにも言いたい。
私自身、もともと色分けが嫌いで、色分けするコミュニティが嫌いなだけだったのだ。私の中では「嘘つき」と「心底意地悪な人」以外に、特に差別や区別はない。自分に正直な人であれば、おしゃれかどうかとか、有名か無名かも全く興味がない。人種も性別も年齢もジャンルも意識しない。要はどうでもいいのである。世界は虹色であっていい。直感で好きな人が好きだが、その人がいるところが好きだとは限らないのだから、そこに入る(所属?)必要もない。そして、そうしてきたことで色々な考え方も知ったし、公平な考え方もできたし、非常に自分の直感を大切にするようになった。無所属は、自分の心の声が全てであり、全てが自分の意思と責任なところが、実に潔くていい。多数の意見に流されない強さもある。
属性が強くなると、なぜか「こうあるべき」がつきまとう。そこから自分を解放してみるのもいい時期が来ていると思うので、今の状態に違和感がある人は、思い切って自分の心の声を信じて、飛び出しているのもいいかもしれない。