課金という仕組みのことを自分なりに考えてみた

なぜ課金が気になるのか

私が課金することができるのか?とても気になった。

自分の何が、誰の役に立つかが、とても知りたくなる仕組みだと思う。SNSのいいねやフォロワーの数と同じく自分の承認欲求を満たすだけの道具として使う人もあるとは思うけど。以前の私だったら同じように考えていたかもしれない。

課金したら与えるものがある?

課金するなら相手に与えるものが何かあるはずで、もし自分が課金するなら何を与えられるのだろうと思った。

ただ、相手がほしいと思われなければ、自分のいいと思うものだけを売るのはただの押し売りでしかない。押し売りするとみんな逃げてしまうだけだ。

私には与えるものがあるのか??誰かの欲しがるものを渡せるのか??何を欲しがられるのか??欲しがるものを持っているのか??何も持っていないんじゃないのか??私が売るものなんて、相手に与えられるものなんて、欲しがるものなんて無いんじゃないか??と、何となく病んでいく感じで思考が進む。

存在価値という考え方

「存在自体に価値がある。」という言葉がある。生きているだけで、そこに居るだけで誰かに貢献しているという考え方だ。極端な話、課金の話にこれを当てはめると、何もしなくても、出来なくても、書くだけでいい。それだけでということになる。そんなんでお金をもらっていいのか?と思う。けど、これは私の枠だ。実はこの枠は幻で、世間の話や親からの教育を総合して、私が勝手に作り出したものかもしれない。

猫はなにもしなくても、寝て居るだけ、あくびをするだけでも可愛いと愛でられて、美味しい餌をもらって、甘えたいときに甘えて、生きていく。人も同じようにできないわけてはない。この辺りは心屋さんとかから影響を多分に受けているけど、心が軽くなる考え方だと思う。こう考えてみると、案外、えいやっ!と課金してもいいのかもしれない。

価値は相手が決めるもの

駄目なら誰も買わないだけ。スルーされるだけ。そんなことで課金するの?ていうのも有りなのかもしれない。たった100円でも課金するのに責任があると思うか、責任は感じなくていいと思うか。課金は書く方の覚悟で払うか払わないか、読むか読まないかは、相手が決めること。こちらが決めた値段でいいかどうか判断するのは、記事を読む人なのだ。

少しでもお金を支払ってもらうことは大変なことと考えるか、軽い気持ちで払っていると考えるか。損したくないと思っているか、損してもいいと思っているか。何だかいろんなものをあぶり出すなぁ。

課金一つで考えてしまう。note面白いな。

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