傷ついたことを、ひとのせいにしている時間がもったいない
誰かと関わると楽しいことだけじゃなくて嫌なことも起こる。
それが家族ならなおさらで、一緒にいる時間が長いこと、相手に期待を持ちやすいことから「裏切られた」「傷つけられた」ということは、避けられないと思う。
家族だって他人なので、考えが違う、すれ違うことは当然だ。それなのに「わかってもらえるはず」という期待がどうしても出てしまう。そのせいで、その期待に応えてもらえないと悲しい気持ちになりやすい。
恋人同士もそう。他人なのに、特別な関係だから理解し合えているのだ、大切にしてもらえるのだと思いやすく、夢見がち。夢や理想と違うことをされると、大きく傷つく。
深く関われば、深く傷つくことはある。
傷つくのは悪いことじゃないと思う。だけど、それを「トラウマ」とかいって、相手のせいにしたり、「傷つけられた」という被害者意識を持ってそこにとらわれてしまうのは、もったいないことだと思う。
最近「毒親」って言葉が安易に使われすぎていてなんだか気持ち悪い。
虐待やネグレクトだけでなく、過干渉やなんらかのネガティブな影響を子供に与える親のことも毒親っていうらしい。
毒親のせいでこうなった、つらいのは毒親のせいだっていうのはいい。どんどん言えばいいと思う。そう表現することが、表現者を救うならそれでいい。
だけど、ずっとそこにこだわり続けて身動き取れなくなるのはなんだかもったいないと思う。
恋愛もそうだ。過去にひどい傷つき方をしたからもう恋愛したくないとか、誰も信じられない、っていうふうになるのは哀しい。
毒親については、いろんなケースがあってほんとうにつらい思いをしている人がいるのはわかる。だけど、毒にならない親なんているんだろうか。子どもは無力で傷つきやすい。だれしも、子ども時代に親からひどいことをされあり、言われたりした経験はあるんじゃないかな、と思う。
親って結構大変だ。
限られたお金や自分の能力の中で、弱い存在を守り育てていかなくてはならない。自分が生きていくのもたいへんな世の中で。他人を育てるのは難しい。愛とか期待とか責任感とかいろんな感情も付きまとう。そんな中でいっさいの毒を排除して子どもを育てるなんてできるんだろうか。わたしには無理だと思う。親しければ親しいほど、相手にとって毒になってしまう可能性は上がる。
暴力とか育児放棄とか、犯罪級のことはしかるべきところにしっかり訴えるとして、気持ちのすれ違いや傷ついたということについては、あまり長く自分の中にとどめておかないほうがいい気がする。
毒を受けてしまったなら、それを解毒する方法を自分で考えて実行したほうがいい。毒の源を責め続ける時間はもったいないし、そんなことしても仕方ない気がする。
うまくいかないことや動き出せないことをひとのせいにするのは楽だ。
だけど他人は他人。自分のために存在してるわけじゃない。
ひとのせいにして、楽になるのはいいけど、そこから次にどう動くか。
人をせめて止まっている状態は、すごく時間がもったいないと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?