「 プロよりも、アマを目指そう 」 Live amateur
「 プロフェッショナルの技 」とか「 プロになりたい 」という言葉を多く聞くが、本当に価値があるのは “ アマ ” (アマチュア)だと思う。
『 プロの定義 』
最初に、“ プロ ” という言葉が差し示す人の定義をしよう。
1. その時代の社会や現場にて、
2. 求めらえた仕事、或いは期待された仕事を、
3. 決められた期間内、求められた時間内に、
4. 求められた予算内、或いは料金・価格以下にて、
5. 一定以上の品質の仕事か製作品を収めて、
6. 一定以上の評価か対価を得ている人
という定義がどんなプロで共通する定義になるだろう。つまりは、自分自身の制作意欲に従い、生きている時代への適合性に配慮する事なく、完成までの期間を定める事なく、予算に特別な縛りはなく(可能な範囲内で)、他の誰かに見せる必要もなく、評価や報酬などを求めずに何かの仕事や創造を行なう人は “ アマチュア ” だという事になる。
『 プロは凄いのか 』
簡単に言って、プロだからと言って凄いわけではない。もちろん、中には凄い人が居るかも知れないが、何かの仕事をしたり創造して報酬を得ている人の全てが凄い技や才能の持ち主である筈がない。
だって、現代の世の中では、大半の人が何らかの仕事をして報酬を得ている “プロ” だからだ。会社でデスクワークをしている人も、製造現場でモノづくりの仕事をしている人も、コンビニエンスストアでアルバイトをしている人も、みんな仕事をしている “プロ” なのだ。
でも、タクシーの運転手全員が上手とは言えない様に、学校の先生全員が教え上手とも言えず、調理師免許を持っている調理士の料理が美味しいとは限らない。 ただ、世の中のシステムとして、報酬を得る “プロ” として仕事を過ぎないのだ。
逆に、タクシー運転手よりずっと上手な運転をする一般ドライバーは数多く居るし、教師免許はなくても教師よりはるかに分かりやすい教え方が出来る人も居る。そして、何より、“ お母さん ” の作った料理は並みの料理屋のよりずっと美味しく心に残る。
『 アマチュアこそ、凄い 』
真に、歴史を超えて価値ある仕事や作品を遺せる可能性があるのは、自身が信じる価値観と想像意欲に従って、可能な限りの費用と時間を費やせる “アマチュア” で間違いは無い。所詮、“プロ”の仕事や作品は、予算と期間が限られたモノばかりだし、何よりもその時代だけに求められたモノなのだ。
と言えば、「名刀と呼ばれる日本刀は “プロ” の作品だ」とか、「レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた最後の晩餐は “プロ” として受けた筈だ」と言って、“プロ” の価値や凄さを指摘する人も少なくないだろう。確かに、特別に “プロ” と呼ばれる人々の中には格段に優れた仕事をする人も居るだろう。数多くの☆がつくレストランのシェフが作るディナー料理は、きっと、とても美味しいのだろうし、タクシードライバーでも目を見張る様に上品で精緻な運転操作を行なう人も居るだろう。
しかし、それでも “アマチュア” には、優れた仕事や創造が出来る特性があると断言できる。それは、特定の対象や目的の為だけに、可能な限りの資金と時間を注ぎ込む事が出来る点だ。それは、“プロ” と呼ばれる人々には決して許されない事だから、“プロ” には不可能な事を、“アマチュア” が成し遂げられる大きな可能性があるのは間違いない。
つまり、シェフにしてもドライバーにしても、不特定多数の人に合わせた作品やサービスが優れているだけの事だ。 社会的な評価や報酬に関係無く、特定の人・例えば愛する家族の為に、毎日の様に心を尽くして調理する人の料理は、家族の体調や好み、心の状態に合わせて、ぴったりと心に寄り添える可能性が高い。それは、大切な人を乗せて車を運転する人の場合も同じだ。
実際、有名な絵画「モナリザ」は、レオナルド・ダ・ヴィンチ が最後まで手元に置き、長期間、多大な手間を掛けて肌の透明感などが自然になる様に緻密な重ね塗りを続けた結果、類まれなる作品として称賛されており、正に “アマチュア” だからこそ成し遂げられた作品と言える。
だから、全ては “アマチュア” の本人の意志次第だけど、“プロ” を 上回る仕事や作品を遺せる可能性は “アマチュア” の凄さだと言える。
『 ゴッホの様な生き方 』
ここで、まるで “アマチュア” の様に生きて、優れた画家として多くの人に知られている人物を紹介したい。それが、「フィンセント・フォン・ゴッホ 」だ。
諸説あるが、彼は、生きていた時に画家として全く評価されなかったし、彼の描いた絵は全く売れなかった。そして、誰かの依頼や指示に従って期日を守って描いたのでもなく、自らの創造意欲の赴くままに絵筆を走らせた人だった。だから、完全に彼は “アマチュア” だと言える。
幸いな事に、彼の弟のテオが生活の為の資金的な支援を行ない、彼が描いた絵は画廊などに販売せずに自ら保管していたので、作品が散逸せず、1800年代後半を代表する印象派画家として歴史に名を遺す人物になったのだ。
僕は、そんなゴッホの様な生き方をしてみたいと考えているし、名が知られなくても同じ志で生きている人は数多くいるだろう。
心が赴くまま創造している事が、例え今の時代に評価されず、何らの報酬が得られなかったとしても、そして ゴッホ並みになれないとしても、僕にはそれを目指す資格があると信じている。
そんな、“アマチュア” な生き方は今までもしてきたけど、収入が減り、支援が得られない状況でも、“アマチュア” な生き方こそ 僕の最大の表現方法だ。