誰がために書くのか
上記は6/28にしたポスト。
このポストをするまで、私は、何のためにずっと小説を書いたり新刊を出したりしてきたのか、分かっていなかった。
「なければ書く」の精神で、ずっと突っ走てきたのだけど、それは、私が読みたいという気持ちがありつつ、何よりも、推しCPの作品数を増やし、推しCPを愛する人間がここに居るのだと叫ぶためだった。
それは、わかっていたけれど、その一歩踏み込んだところを分かっていなかった。
でも、わかった今なら、わかるのだ。
全ては、推しCPへの献身だったのだと。
推しCPへの献身で、ここまでずっと書き続けてきた。
自分のためには書いてなかったのだ。
これについて字書きの友達に話すと、「気付いてなかったの?」と言われた。
全く気付かずにここまで来ましたよ、はい。
私の作品は、私を知ってる人が読めばわかるほど、我が強い作風なのだが、それでも、推しCPへの献身で書いてきたのだから、随分アンバランスなことを器用にしてきたものだ、と我ながら感心した。
だからこそ、私は、先程の呟きの数日前に
と呟いたのではないかと思う。
我をもっと出していくことで、より、しっかり書けると思ったのだろう。
その直前には
と呟いている。
これについて、文字書きの友達と話したとき、この意向を伝えた上で、言葉にならないとこもそのまま話すと、「洗練」というキーワードが返ってきた。
ピッタリだった。
私は、より、洗練さを伴った創作をしたいのだと、そのとき理解した。
つまり、何が言いたいかというと、「真面目さと丁寧さをつきつめた洗練さを伴いながら、更に自分を出して、自分のための作品作りをしたい」ということだ。
これにたどり着いてから、私は、すごく身軽になった。
気負うものが圧倒的に減ったからだ。
だからといって、読んでいただいたときに、作品が面白くなってるだとか、上手くなってるだとかは、ないと思うのだけど。
身軽になって書いた新刊は、書いていて、いつになく気楽だったし、向かうべき道がちゃんと見えている爽快さがあって、非常に書きやすかった。
1個前のnoteで書いた「何を書きたいのか」は、自分のために書き始めたこれから先で、分かるようか気がしている。
ちなみに。
「これからは自分のために書く」と話したところ、字書きの友達に「みんなそうだよ」と言われ、とても新鮮だった。