生きることの勝利条件
会社というシステムの中にいると、自分の価値について見失う。
履いている下駄の存在を忘れてしまうから。
ある部分を過大評価し、また別の部分を過小評価してしまう。つまり、認知の歪みが発生する。
とある大学時代の後輩と話していて、つい口をついて出てきた言葉。
「会社員である自分が、許せなかった。」
言葉が出てきて認識する、自分の心というものも、ある。
生きる上で、安心とは、なくては困るものだが、安心そのものは獲得目標足り得ない。置かれた環境でベストを尽くす。そういうふうに書くと少々凡庸な響きがあるが、確かにそういうところはある。
なぜ生きるか、なんのために生きるか。そんな風に問うのは、思春期の特権だ。さすがにその倍の時間を過ごして同じ問いを繰り返すのもあれなので、問いを更新する。
生きるということの、勝利条件は何か。
まあ、中二病な感じは、さほど払拭できてはいないかもしれないけれど。
歴史に名を残す。後世にレガシーを贈る。どこからか聞いたことのあるそれらしい「人生の目標」というやつは、おそらく人間の模倣本能が言わせている。まやかしのような何かだ。
自分が、自分を、他者との関係性において、肯定する。
自己肯定感などというものとも少し違う。否定の否定、二重否定のようなものであるかもしれない。と、そう思うのである。