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「XはYだ」式命題に隠された謎を解く方法

 XはYだ、という命題の提示について考えると、思ったより奥が深いことに気付かされる。

 この構文の元祖は、「吾輩は猫である」であるという。明治維新前は「時は金なり」みたいな言い方をしていた。「で・ある」という助詞の組み合わせは「is」の訳語として編み出されたのだ。
 夏目漱石は、その違和感をタイトルにあえて活かすというテクニックを駆使したわけだが、これは考えてみたら極めて村上春樹と通底するアプローチである。

 「は」は、それ単体では「is」ではない。「である」と組み合わせて、初めて「is」になる。

 「春は、あけぼの」は「春はあけぼのである」とは訳せない。正しい訳は、「春と言えば、あけぼのですよね」である。

確率的命題としての「XはYだ」

 この構文における最大のミステリーは、私は嘘つきだ、という自己言及のパラドックスだ。

 「私」が正直者だと仮定しても、嘘つきだと仮定しても、この発言は成立しない、という謎かけである。

 文法的には成立するのに意味が収束しない。そんな言語的事象があってよいのか。

 最近思ったのだが、「XはYだ」は、「私はXがYである真偽確率がZ%だと認識している」の省略形だと理解すべきなんじゃないか。
 Zの情報は、命題の内部ではなく外部によって提供される。つまり、文脈によってそれを伝える。冗談ぽく話す、みたいな身振り手振りでもいいし、会話の流れでもいい。
 文脈とセットで命題が提示されて初めて、伝えたいメッセージが伝わる。

 「XはYだ」という命題自体の意味内容が重要なのではなく、その命題が、どのようやメディアで提出されるかが重要なのである。考えてみたら、命題は命題自体が独立して意味を持つことはなく、それが誰かから誰かに伝えられて初めて、認識が醸成されて、状態が更新される。
 そもそも、人間の表現行為とは、当事者が自身の環境を最適化する行為であって、だとするならば、命題が他者への働きかけであるという理解は、至極当然である。

 考えてみたら、そもそも、私は嘘つきだ、を問題にする人は、そのほとんどが吾輩は猫である、を問題にしないわけだが、それもまた変な話なのである。吾輩は猫である、を自己言及のパラドックス風に理解しようとすると、これだって、意味は収束しないのだ。

 新聞連載のタイトルとしてこの命題を提示する行為は、z=0%であることを表現している。そこに違和感と諧謔を感じてくださいね、というメタメッセージが、この命題の本質である。そして、その違和感にこそ、その小説に隠された謎を解く鍵があるのだと伝えている。

 そのことに気づくことが、言文一致運動とはなんだったのか、日本社会における西洋文明の受け入れとはなんだったのか、それは、いま現在の日本社会、さらには世界文明において何を示唆するのか、に気づくことに繋がっていく。吾輩は猫である、という小説は、その意味においてこそ、不朽の名作である。

「XはYだ」界の、不朽の名作

 「芸術は、爆発だ」は「XはYだ」式の構文における不朽の名作だ。これを超えることは、不可能かもしれないとすら思える。

 その凄さの源泉は、真偽確率が限りなく100%に近いというところにある。

 発表当時の岡本太郎のメディアにおける扱いは、キワモノという言葉がふさわしいような感じだったが、時の経過がそれを不可逆に覆しつつある。

「XはYだ」の凡作

 「これからは、DXだ」といった言明は、時代の波に呑まれて消えることが宿命づけられている。

 「これからは」が、もう、駄目だ。

「XはYだ」の珍作

 「ワレワレハ、ウチュウジン、ダ」は、昭和の終わり頃から平成初期の子ども達に、妙に流行った。

 吾輩は猫であるの伝統を引き継ぐ「XはYだ」である。なんでこれが流行ったのかわからないが、喉を刺激したり、扇風機に向かって発音する遊びにはなんとも言えないおかしみがある。

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