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特別であり、かつ、特別でない
人間、誰しもが、特別であり、
同時に、特別ではない。
考えてみると、この社会は、自分が特別な存在だ、と、感じさせてくれるものに、満ちている。
物語がそうであり、アートがそうであり、ゲームがそうである。
この出会いは運命だ、この感動は特別だ、自分だけのものだ、自分たちだけのものだ。
エンタメ産業とは、それが感じられる商品が売れるという構造にあり、かつまた量産が容易な「情報化プロダクト」である。
ゆえに、現代人とは、物心ついた頃から、自分の好きなもの、好きなことに囲まれて生きることが、所与の条件となっているのかもしれない。
それを享受するだけの人間とは、実はまったく特別な存在ではなく、「消費者」といういち単位でしかなかったりする。
生産、という方に目を向けても、誰でもできる仕事に従事するという行為は、「労働者」という、これまたいち単位に身を堕とす危険性のある行為である。
いち単位としての人間同士が、妥協してハードルさげて、結婚して、子どもを産んで、いち単位としての家族になる。それで良いじゃない、そんなふうにしてる夫婦、いっぱいいるじゃない、と、麦は言う。
絹は、それは違う、と、言う。
その主張は、おそらく、制作者の主張である。
この映画のなかで、絹にそれを言う資格はあるんだろうか、と、いう気もしないではない。しかし、妙に説得力はある。有村架純という女優の持つオーラのおかげか。それもあるが、どちらかというと、女性という性の、根本的な身体性や、したたかさに根差している気がする。
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しかし、note見てると、みんな、この映画について、語る語る。今年のヒット作になるかもしれない。
誰かが、「多数の少数派」と言っていた。まったくもって、その通り。
別の誰かは、「ビューティフルドリーマーより、ビューティフルドリーマーしてる」と言っていた。これは実に鋭い指摘。
特別って、どういうことだろう。
鬼滅の刃を、あるいは新海誠を、みんなが観てるらしいから行っとく、とか、クラブハウスが次来るみたいだからやっとく、とか。
そういう価値観に違和感を覚える人が、実は大多数なのかもしれない。そのことと、流行るものが流行るという現象は、矛盾しないのかもしれない。
自分はユニークな存在でありたい、ということと、自分と同じ葛藤を抱えた他者に存在していて欲しい、ということが、一人の人間のなかに同居すること、それも、ものすごく矛盾したことのように見えるが、人間にとってそれは、ごく自然な状態なのだろう。
いまどき、自分が特別だといくら叫んでも、かき消されるのが関の山であり、君は特別だよというメッセージこそが、求められている。そういうことなのかもしれない。それって、ものすごくメタな、メタメタな話だ。
でも、と、思う。むしろ、だからこそ、特別な価値を生むために、精進すべきじゃないの、と、
現代社会は、ものすごくねじれているのかもしれない。そして、そのねじれた社会の嚆矢と言っても過言ではない、当の押井監督の最新作が、あまり話題になっていないように見える。氏の作品がこの作品に与えた影響について語る言葉も少ない。