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当事者でない人間の当事者性

 人間は、自分以外の当事者にはなれない。

 人は、この当たり前のことを、つい、忘れてしまう。

 会社という空間のなかだと、当事者意識を持て、なんてことを、普通に言ったり、言われたりする。
 そんなの、不可能に決まっている。

 不可能に決まっているのに、つい、持てちゃう気がしてしまう。持てちゃう気がしてしまうと、人のためにああだこうだと走り回る義務を必要以上に引き受けてしまう。

 「己がやらなきゃ、誰がやる」と、そう信じて、当事者意識を最大限に拡張し、行動力を発揮する。

 能力と志がある人は、人よりも少しだけ未来が見通せるから、そして、きたるべきバッドエンドを回避する方法もわかるから、そうせずにはいられない。

 その、「そうせずにはいられない」が、結局のところ、自縄自縛となる。
 人の能力には限界があるからだ。世界中を救えはしない。自分が救える範囲は、自分の半径数メートル以内である。そこで何が起きるか。報告、連絡、相談の嵐である。嵐に人を巻き込み、人の嵐に巻き込まれ、一体全体、誰のために何をやっているのか、わからなくなる。

 そして誰も幸せにならない現場が完成する。

 業務時間のほとんどを報告や連絡に費やしていて、実務の優先度が極めて下がってしまった状態。みんなが会社に恥をかかさないように、損害を与えないように、自分の責任でそんなことがよもや起きないために、内部の論理でリスクとコストをまぶしあっている状態。

 人はそれを、大企業病だといったり、ベンチャー企業のミドル不足と言ったりするが、企業の問題ではなく、一人ひとりの資質と努力の問題なのである。

 これを、「当事者意識の暴走」という。

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 もちろん、相手の課題を我がことのように感じる感性は、大事だ。
 それが人間の人間たる本質でもある。共感しあい、共同幻想を生み出し、共創し、ひとりではなし得ない成果を生み出す。

 当事者意識を己の外に拡張しないと、そういうことはできない。

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 かたや、誰の益にもならない、くんずほぐれつ。
 もうかたやでは、みんなで幸せになる幸福な関係。

 基本的には、世の中のほぼほぼあらゆる活動は、前者である。例外的に、後者が生まれるときもある。

 なぜそうなるか。それは、当事者でない人間同士が、その立場のギリギリの限界を超えない極限まで、限りなく当事者意識を拡張し続けるからだ。

 当事者が自ら気付き、悟り、変わる、そのきっかけであることに徹すること。
 それは、手取り足取り教えることではない。丸投げしちゃうことでもない。

 自分と相手のスコープの境界を、指し示し続けること。
 委ねるべきところと、引っ張るべきところ、その潮目の変化に敏感であること。
 これを気付けと核心を述べるのを我慢すること。
 あらゆる瞬間に気付きが訪れていいように、己を研鑽し続けること。

 それは自力とも他力ともつかない、縁の力としか言いようのない意識状態だ。己であり、相手である、同時に、己でなく、相手でもない、日常的意識の向こう側に一歩を踏み出した境地である。

 意外とそれは、みんなよく体験しているのである。そうと気づかないときに。たとえば、雑談が盛り上がっているとき。
 そして、肝心なタイミングでは、発揮するのが難しい。
 共同作業をしよう、チームになろう、利益を生もう、分け合おうと、した瞬間に、色んなことが、ぎこちなくなる。

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 当事者じゃない人間が、できる最大限のことは、「きっかけ」であることだ。
 それ以上のことは、できない。それで良いのだ。いや、それこそが、良いのだ。

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 オーナーだとか、ファシリテーターだとか、PMだとか、PdMだとか、PMOだとか、発注者だとか、メンバーだとか、部長とか、課長とか、ボードとか、CXOだとか、その他大勢のなんやらかんやらの役割名を、一切合切、忘れてしまえば良い。
 そうやってあてがわれた役割を演じることができているつもりになったり、あてがう相手が不足していることを嘆いたり、いったい何馬鹿なことをやってるのか、と、思う。

 ついでに、スクラムだとかスプリントだとか、四半期発表やら評価面談やら1on1やらのシナリオを、一切合切、忘れてしまえば良い。
 そんなものは、虚構に決まっている。虚構を虚構のままになぞって演じたら現実が動くと期待するのは、考えることを放棄して、楽をしようとしているだけだ。
 目をかっぴらいて、普通の感覚で普通に現実を見ることを、忘れてはいけない。ほんとにこんなんでうまくいくのか?と、疑問に思ったはずである。そうであるならば、ちゃんとその疑問を引き受けるべきだ。

 わからないけど、やってみよう、わからないから、やってみよう。それは全然問題ない。そうやって身を投げ出した人間は、失敗を学びに変えられる。失敗が失敗じゃなくなる。問題は、半信半疑で中途半端に乗っかって、結果うまくいかなかったときに、色んなことを棚に上げて悲憤慷慨することだ。

 己の怠慢の報いを受けるのは、自分自身だ。それをやれ会社のせいだ、上司のせいだ、資本主義のせいだと、話を大きくして嘆く。
 それらの一部は真実なのだけれど、うまくいったりいかなかったりする理由の、全部であるわけがない。

 うまくいったりいかなかったりする理由の大部分は、己にある。己の思考や想像力、行動にある。それに気付き、受容れるのは、有能で志のある人間にとっては地獄のような苦痛である。
 それを受け容れざるを得なくなる限界まで、己が己に追い込まれるのは、文字通り命懸けの危険な行為なのだけれども、その先に、運良く執着の重力圏を超えられたら、景色は一変する。

 昔、心ある人は、それを、見性と呼んだ。

 見性とは、単一の現象であるが、そこに至る道には、マニュアルはない。限りなく多様で有り、かつ、限りなくワンパターンでもある。

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 当事者意識をギリギリまで考える。考え抜く。互いに担うスコープと機能について、認識を合わせる。協働する、連携するとは、そういうことだ。それは実に面倒な話だが、そこを迂回しているうちは、山頂には1ミリも近づかない。
 しかし、その実に面倒な話に徹しさえすれば、山頂は自らやってきてくれる。

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