生産性は灰色をしている
悟り、見性、成仏、菩提、正覚、解脱。同じことを表すために、なんでこんなにたくさん言葉が必要なのだろう? と、いうのが、最近の疑問。
それはそれとして。
長女が図書館から借りてきた、エンデの「モモ」を読んだ。
久しぶりに、本当に久しぶりに読んだのだけれども、やっぱり、記憶に違わず、良い本だった。
マイスター・ホラに時間の花を見せてもらうシーン。このシーンこそがこの物語のクライマックスである。隻手の音声を具象化したかのような奇跡のイマジネーション。
物語の世界では、モモが世界を救ってくれたが、現実の世界では、いまだに灰色の男たちに蝕まれ続けている。致死的退屈症。
50年も前に書かれた本だけれども、これを語る以下の言葉は、現在性をいささかたりとも、損なっていない。
「はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、およそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、よろこぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くことも忘れてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない。ここまでくると、もう病気はなおる見こみがない。あとにもどることはできないのだよ。うつろな灰色の顔をしてせかせか動きまわるばかりで、灰色の男とそっくりになってしまう。そうだよ、こうなったらもう灰色の男そのものだよ。この病気の名前はね、致死的退屈症というのだ。」
すべての現代人にとって、この症状は、無縁ではいられない。
こんなに物質的に豊かになったのに、なぜ?と、人は問う。なぜこんなにも、物に満たされているのに、生きる時間が虚ろなのか、と。
それは問い方を間違えている。
灰色の男たちは、生産性そのものなのだ。
生産的であればあるほど、世界は退屈になっていく。物をどれだけ満たしても、満たされない心という皮肉。
彼らを否定し切り捨てることでは、救いはもたらされることはない。生産しなければ、食べていけないからだ。
じゃあどうすれば良いのか、と、聞きたくなるかもしれないが、そんな簡単に答えが見つかるわけはない。
しかし、ヒントと手掛かりはある。それに気づくことからしか、本当の物語は始まらない。
人間性の回復は、時間の充実である。
時間の充実とは、効率とは全く異なる次元に成立する。大いなる無駄。全身全霊の贈与。
満たされたければ、投げ出さなければならない。この絶対的矛盾を、受け容れることだけが、道標である。
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