個人的な物語の普遍性
ひさしぶりにAvalonを観ると、押井守監督の超絶的な先見性に驚かされる。
あらゆる意味で時代を先取りしていた、ということが、今見ると、よくわかる。
でもきっと、おそらくそれは、先読みをしていたとか、未来予測をしていたとか、そういうことではないのだろう。
真実に、真理にただただ、迫っているから、現在性が摩耗しないのだろう。
いまみると、この作品に宿る「気分」のことが、よくわかる気がする。
この映画は、見方によっては、ただただデジタルエンジンの解散について総括しようとしているだけの、とても個人的なフィルムでもある。
なにかを為そうとする人は、常にアッシュであり、マーフィであり、スタンナである。
とてもとても個人的なものが、かえって普遍的なものになる。
映画を、ということは、この世の森羅万象を、我がことに感じるためには、経験も勉強も、必要である。
そういうことを、教えてくれる映画でもある。
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