HUNTERXHUNTER列伝 外伝 戸愚呂弟
絶対に勝てない戦い、ということを考えると、冨樫義博作品におけるその初出はなにかといえばそれは浦飯x戸愚呂戦、いや、より正確に言えば、戸愚呂x潰煉戦だった、と、ふとしたことがきっかけで思いあたることがあって、少々の追記をする次第だ。
潰煉のエピソードを見返すと、なかなか味わい深くて、いわく、人間界最高を誇っていた戸愚呂だったが、突然あらわれた妖怪、潰煉にすべての弟子を殺され、為す術なかった彼が、暗黒武術会で雪辱を果たした、その望みが自らも妖怪になって武の道を孤独に究めることだった、という。
獲得するべきは、自分よりも弱き者をまもる強さであるべきなのか。それとも、弱きものを守れなかったことを悔やむのは執着、煩悩であって、それを断ち切ってこそ得られるのが本当の強さだと、そういうことなのか。
本作は少年漫画なので、あるべき姿は前者なんだということを描くことは前提である。しかし本音ではそれを是としていないのかもしれない。冨樫先生自身のアシスタントとの関わり方や絵に対する理想家的態度など、作品外の話に目を向けると、案外、相当内省的にこのテーマを取り扱っていたのかもしれない。
そして、暗黒武術会全体を通してこれにまつわる色々なエピソードが積み重ねられ、実にコツコツと描写が重ねられてきたわけであり、そのクライマックスとしての幻海との問答には、不思議なカタルシスがある。
「断ち切った」と位置づけるのか、「逃げた」と位置づけるのか。
「あのとき潰煉を倒せなかったのは仕方がなかった、あんたのせいじゃなかっただろう」と幻海が言葉をかけて、それに対してあくまで露悪的な返事を返す、その振る舞いは、幻海に対して、なお格好をつけていたい気持ちが勝っている、少年的な心理だ。最後の最後まで、互いを思うがゆえに、すれ違い続ける二人。なかなか大人な描写だ。すれ違い繋がりで連想すると、そういえば、HUNTER×HUNTERでは、ゴンとキルアのすれ違いが描かれて、そこに幻海=ビスケットの姿はなかった。大切な人を守れなかったことを悔いるという状況において、ゴンは浦飯よりもむしろ戸愚呂に接近している。
戸愚呂は、最後の「あんたには世話ばかりかけちまって」の一言で、気持ちが通じ合うような形で落とし前をつけた。絶対に勝てない戦い、というテーマに対するリベンジマッチとして、HUNTER×HUNTERを、なかでもゴンを、ピトー戦を描くことになったのだろう。
個人的には、冨樫作品を読むと連想するのが押井守作品であるわけだが、そういえば、あちらはそういうアプローチを取らないなと、いま書きながら思った。色んなことの描き方が、もう少し大人である。勝つことではなく、負けないことを描く。
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「絶対に勝てない」とは「暴力」ということである。カフカなら「不条理」というだろうか。もっと有り体に、ただ「理不尽」と言い換えてもいい。それはこの日常にも確実に存在するし、遭遇してしまったら最後、たしかに何をどう足掻いてもその運命には抗いがたい。
それに直面した人間が、贖罪を選択した、というのが幽遊白書という作品における表現であったわけだが、現在の最新バージョンたるメルエムxネテロ戦、あるいはネフェルピトーxゴン戦においては、そういう湿っぽさは取り除かれている。非人道的な、正義というよりはむしろ悪の力を得て、反則技で捻じ伏せ、自らはその罪を背負って潔く退場する。貫き通すということでは確かに潔いが、やはり、それはそれでフィクションの所業なのではないか。
「暴力」は、少年漫画的なフィクションの世界の専売特許ではなくて、今私達が生きる現実に存在している。それは必ずしも「悪意」によって発生するわけではなく、ときに偶然から、ときに善意から、はたまたときにシステムの必然から、突如、牙を剥く。その喩え話として冨樫義博作品は読めるし、読まれるべきところである。
繰り返し語られている「絶対に勝てない戦い」というモチーフ、今少し時間をかけて、プロジェクト論的に、組織論的に解きほぐし、解き明かしたいものだと思っている。
いまのところ、残念ながら、結論に到達する気力もアイデアも、持ち合わせていなくて、備忘的なエントリになってしまったが。
馬鹿は死んでも治らないし、男は女に永遠に勝てない。とりあえず、そんなふうに言ってしまえば、それはそれで間違いはない。